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横浜駅イタリアン・レストラン・エルスウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(十)2015.12.11

横浜駅イタリアン・レストラン・エルスウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(十)

ユーリも映画が大好きである。
何年か前、テレビのロードショーでみた「ローマの休日」でのオードリーヘップバーンのかわいいこと。
ローマの美しい街で美男美女のカップルが楽しい出来事をくりひろげる。

「ひまわり」を見た時は涙が止まらなかった。
戦争で不明になった夫のマルチェロ・マストロヤンニを
ソフィア・ローレンがイタリアからロシアまで捜しに行く。
やっとつきとめた夫の消息。ロシアでの新しい家庭、ホームの遠くにいとしい夫の顔をみとめたソフィア・ローレンの顔。
遠くからはっとして見つめあう。
ソフィア・ローレンの美しい顔が悲しみでだんだんくずれてゆく。
耐えきれず列車へ飛び乗り泣き崩れる。
全世界を涙の洪水でおおったシーンである。

「ブラザー・サン・シスタームーン」は、
もう一人のキリストと呼ばれたサント・フランチェスコの生涯の物語だ。
イタリア・トスカーナ地方、ウンブリアのアッシジの裕福な家庭で生まれたフランチェスコは、大病を機にイエス・キリストの本当の教えを真実の道に目覚める。
家を捨て、父、母を捨て財産を捨て、一人廃墟の教会の意思を摘んで再建に務める。
「鳥は紡がず、織らず、はたらかず、神が養う。」
美しい母親以外は人々はフランチェスコは気が狂ったとうわさした。
が、やがてフランチェスコの人柄と考えとその行動に賛同して従ってゆくものが、一人、二人とふえてゆく。
トスカーナの大自然が美しい。
黄金の麦の波の中で貧しい農夫が食べかけの自分のパンをフランチェスコに差し出す。
フランチェスコは少しちぎって残りを仲間に渡す、仲間も同じようにちぎって隣の人に渡す。
みんなにゆきわたる黄金の大自然。男たち。美しい世界。

フランチェスコに会ったローマ法王は、
「あなたは真実の人だ」
とフランチェスコの脚に口づけし
「真実の教えを広めてください」と言う。
美しい物語だ。美しい大自然。
美しい音楽は吟遊詩人ドノバンだ。

横浜駅イタリアン・レストラン・エルスウェーニョの個室で今度はユーリが語っている。
ビッキーはワインを飲みながらふんふんと聞いている。
フランチェスコの話は聞いたことがある。
伝説の聖人だ。ゼッフィレッリの他にロッセリーニの映画にもある。
こんどゆっくり見てみよう。

とりあえずワインと生ハムだ。
ワインはトスカーナのカルミニャーノ。
日本ではあまり知られていないが、トスカーナの古典的ワインだ。
力強く豊かな味わい。
フランチェスコはこのようなワインを飲むことがあったのだろうか?
そしてここにあるプロシュートのような食べ物も。

次の料理はアヒージョ。イスパニアの家庭料理で土鍋にオリーブ油を入れて、にんにくで香りづけし、肉、エビ、魚、野菜などなんでも煮込むことができる。
日本の鍋料理と同じでだし汁がオリーブ油となる。

横浜駅イタリアン・レストラン・エルスウェーニョでは、にんにく、アボガド、ナス、トマトそしてオリーブの実をオリーブ油で煮込む。
そしてカメリーナ。アヒージョの主役はパンである。
イスパニアの人達は、カメリーナのいとこともいえるあの堅いパンにいろいろな味と香りのオリーブオイルをつけて食べて暮らしてきたのである。

第十話 おわり

横浜駅イタリアン・レストラン・エル・スウェーニョのビッキーとユーリのグルメ探訪(九)2015.12.11

横浜駅イタリアン・レストラン・エル・スウェーニョのビッキーとユーリのグルメ探訪(九)

ビッキーはあるとき、ふらりと名画座に入って白黒の古い映画をみて、あまりの衝撃にしばらく椅子から立ち上がれなかった。
「ストラーダ(道)」という、古いイタリア映画だ。
その夜、ユーリと二人で横浜駅イタリアン・レストラン・エル・スウェーニョのバーカウンターの先の右の個室に座って
ワインや料理をそっちのけで熱情のままに、いかにその映画がすばらしかったかを、
ビッキーはユーリに向かってとめどもなく語るのである。
ユーリも「うんうん」と聞いていて、話の内容はともかく
このように熱いビッキーが好きなのだ。

イタリア映画は名作が多い。
「自転車泥棒」「鉄道員」など古典的名作はシーカである。
ヴィスコンティは「ベニスに死す」「山猫」「郵便配達は二度ベルを鳴らす」など。
そしてロベルト・ロッセリーニ。

ハリウッドの大女優イングリッドバーグマンは、ロッセリーニの「無防備都市」を見て、並いるハリウッドの伊達男たちや才能(監督)たちを投げ捨ててロッセリーニのもとへ走る。
バークマンはロッセリーニへ手紙を書いた。
「私の知っているイタリア語はアモーレだけです」
と。
フェデリコ・フェリーニは、「ストラーダ」でサーカスの野蛮な怪力男ザンパノと、
それに無理やり連れていかれるジェルソミーナの二人の旅と夢とそして別離を描く。
アンソニークインはすばらしい。
ハーレーの後ろに幌付き車をつけてイタリア中を旅しながら胸で鎖を切る。
大道芸を見せて投げ銭を稼ぎ、各地のイベントやサーカスを渡り歩く。
ジュリエット・マンシーナは貧しい家の娘の役でザンパノに売られるのだ。ピエロの格好をさせられザンパノに芸を仕込まれる。
二人は夫婦として各地を旅し芸を見せる。

ニーノ・ロータの音楽もすばらしい。
ジェルソミーナはトランペットで哀愁を帯びたすばらしい曲を奏でる。
いろいろな街、大きな家の結婚式、修道院、綱渡りの曲芸師。
その曲芸師といさかいがあり、ザンパノは彼を間違って殴り殺してしまう。
そしてそれがもとで、ジェルソミーナを置き去りにして逃げるザンパノ。
哀れな女。哀れな男。逃げるザンパノの姿が悲しい。

逃げる。逃げる。逃げる。

逃げても逃げても、月日がたってもたっても逃れることはできない。

老いたザンパノはある時、かつてのジェルソミーナが吹いていたあのメロディを耳にする。
そしてそのあとの彼女の消息を知る。
夜、海辺で泣き崩れる男の姿。
………

ここまできて、ビッキーは一息ついた。
赤ワインを飲んでやっと落ち着いた。
ユーリもほっとする。
ワインはイタリアの赤モンテプルチアーノ・ダブルッツォ。
超熟プロシュートもある。
ユーリはやっと生ハムをゆっくり味わうことができた。
次に運ばれてきたのは、炭火焼キッシュである。
ふんわりとふくらんだ熱々の卵。
キッシュは卵と生クリームを溶いてパイ生地でスイス産グルイエールチーズと共に焼く。
チーズは数百とも数千ともいわゆる種類がある。
チーズの歴史も古く放牧と共に人間にもたらされたであろう。
日本でも聖徳太子の時代に牛乳をにつめた「蘇」が生まれ、それを発酵させた「醍醐」がつくられたのがチーズの始まりだ。
つい最近まではチーズは各家庭の主婦の手でつくられていた。
木の桶に牛乳をいれておく。
数日するとかたまってくる。
モッツアレラという言葉は、つかみ取るという意味だ。
すこしかたまったチーズを手で掬い取ったのだ。

牛乳がイタリア南部の水牛であればブッファラになる。
すくいとったモッツアレラの後に残された水分にミルクを加えてマスカルポーネをつくる。

フレッシュなモッツァレラと麦で燃やしてアッフミカート(スモーク)すると保存がきく。
生のチーズを平たくしてしばらくおいておくと周りに白カビが生えて周りが固まってくる。
中はクリーミーだ。
カマンベールチーズである。
またはフランスブリーだ。
その白いカビを水やブランデーで洗いおとし、ある固有のカビだけを残す、ウォッシュタイプのチーズ。
青いカビの菌のついた針でチーズを突き刺して青カビを育ててつくるブルーチーズ。
あるいは生のチーズをロウの型に押し込んで水分をとる方法。
灰をまぶして水分をとる方法。
いろいろな方法がある。
水分をとって熟成させるとすこし固めチーズができる。
あるいは熱を加えてから熟成させる、ハードタイプ。
パルミジャーノ・レッジャーノはこの方法で長時間熟成させる。
材料が山羊の乳のシェーブルチーズ。
羊であればペコリーノである。
みんなそれぞれに固有の香りと味を持ち、チーズはそのままでも、料理にお菓子と用途が広い。

家庭でのチーズ作りの大敵はネズミであった。
ネズミもチーズが大好きなのである。そのうえ、人間より先に食べてしまう。
いろいろ工夫をして、ネズミからチーズを守る。
よく見かけられたのは、天井の梁からロープで板を水平に宙づりにしてその上にチーズを置く。
ロープの途中にトゲトゲの木の枝の葉をしばりつけてある。床からはネズミはジャンプしても届かない。
ロープを伝わっておりてくるネズミはトゲのネズミ返しで引き返す。

横浜駅イタリアン・レストラン・エルスウェーニョの炭火焼キッシュは、卵と生クリームを混ぜてすこし泡立て、グルイエールチーズをズッキーニとトマトと一緒にパイ生地の中へ流し込み、釜の中で焼く。
パイ生地が香ばしく焼け、卵がふんわりとふくらみ、切ると熱い湯気と香りが広がる。

ビッキーも思いのたけを語って、落ち着いてきて、
熱々のおいしいキッシュを味わったのであった。

第九話 おわり

横浜駅ジャズ・アンド・イタリアンレストラン・エルスウェーニョの小説(四)2015.12.11

横浜駅ジャズ・アンド・イタリアンレストラン・エルスウェーニョの小説(四)

子供の時からピアノを習っていた舞は
クラシックピアノの腕もの腕もかなりのものだったが、ある時不思議な音色のピアノを聞いた。
喫茶店のバックミュージックでジャズの塩蔵が流れていたのがゆっくりとした堅実なベースドラムのリズムにのって
とてつもなく深いトランペットの音色。
どれに続くヴィブラホンの躍動感。
そしてピアノ。このピアノをどう形容していいのか。まるで子供のように無心で
無邪気な。それでいて世界を創出し、地の果て海のかなたまで見渡すような。
舞は一度きり聞いたその音にとりつかれ。
大学のジャズ研究会の門をたたいた。

ジャズ研でいろいろな仲間たちと
ジャズを研究したり学んだり塩蔵したりするうちに、その衝撃を受けた。ピアノはセロニアス・モンクだということもわかり、
モンクを中心にジャズを吸収していった。
舞たちのトリオのバンドも腕を上げ
横浜の小さなジャズクラブで演奏させてもらえることになった。
オーナーの門さんは舞たちの演奏を気に入り、終わったあとワインと食事を囲み、みんなでジャズ談義に花が咲いた。
無口な門さんもこの夜はいろいろな話を聞かせてくれた。
以下は門さんの語るジャズの黄金の物語である。

横浜大空襲で家族を失った門さんは
横浜港で船の積み荷を運ぶ仕事をしていたがアメリカの船の船低で疲れていて眠っている間に船はアメリカへ向かって出航してしまったのだ。
太平洋を渡る間、調達室で手伝いながら
食べさせてもらった。当時はこのようなことに大らかだった。
ロサンゼルスにおいて積み荷にまぎれて上陸し、ヒッチハイクでアメリカ大陸を横断する。
世界大戦を勝利し、
世界のリーダーたる自覚のアメリカ人は貧しい敗戦国の少年にやさしく
車はすぐに止まって乗せてくれたし
食べるものもそれほどには困らなかった。
当時はこのような時代であった。

ニューヨークにたどりついて、門さんは
ハーレムのミントンの店で住み込みの無給のボーイとしてやとってもらえた。東洋の小さな端正な顔たちとまじめな仕事ぶりをかわれて寝る場所と食事を得たのだ。
ミントンのレストランの奥はピアノ・ベース・ドラムのステージになっていた。ジャズを演奏していたが門さんにとってその音楽は聞いたことのない
変わった感覚のものだった。
若い黒人のミュージシャンたちがたくさんいる。店の営業が終わったあとも黒人たちがやってきて入り乱れて演奏している。
いったい何をやっているんだろう?
こんなにたくさんのミュージシャンたちが夜遅くまで集まって、ああだこうだと熱心にとりくんでいるものとは?

ジャズのルーツはアフリカの黒人のリズムだといわれる。新大陸発見の後、黒人たちは奴隷としてまず南アメリカへ連れてこられる。
この地で先住民とスペイン人と黒人の融合が集みラテン音楽が生まれる。
その後、アメリカ合衆国の独立後、黒人たちはアメリカ合衆国に連れてこられる。奴隷として。
南部の黒人綿花労働者たちの間で自分たち固有の音楽を生み出す動きがおこり、デキシーランドジャズとして確立される。
ルイ・アームストロングという大スターを得て、ジャズは世界中に認められ、新しいアメリカ音楽として発展していく。
その後、ベニーグッドマン楽団やグレンミラー楽団などのビックバンドを中心にスウィングジャズとして人気を博していく。

そしてデュークトリントとカウントペーシーという音楽的リーダーの出現。
ニューヨークはハーレムもダウンタウンも
ジャズであふれている。いたるところジャズクラブがあり、ジャズミュージシャンとジャズファンがひしめきあっていた。一九五〇年頃のことである。
門さんはミントンズの若い黒人ミュージシャンたちにもかわいがられていた。そこに出入りしていたたくさんのミュージシャンたち。
その中にはチャーリーパーカー、ディジー・ガレスビー、ミルトジャンクション、セロニアス・モンク、バトパウエル、ケニークラーク、アートブレスキー、少し遅れてマイルス・ディビス、マックスローチ、ルイブラウンといったその後のジャズを作りあげてゆく人たちもいた。夜、ジャズクラブやビックバンドでの仕事を終えて、
まだ吹き足りないミュージシャンたちがミントンの店に集まってくる。深夜遅くまで
入り乱れてセッション(演奏)が続く。
アフターアワーとも呼ばれる。
そして彼らの音楽をビーバップと呼び、
モダン・ジャズの誕生と言われる。
モダン・ジャズを最初に認めたのは
ヨーロッパの知性であった。
サルトルはニューヨークへ来てチャーリーパーカーと握手し賛辞を送った。パーカーは答えて
「サルトルさん、ぼくもあなたの音楽が大好きです」
といった。サルトルは自分の哲学が
音楽と呼ばれたことに喜んだ。
だんだんにモダン・ジャズはアバンギャルド(前衛芸術)として認められ、人気を得ていく。

セロニアス・モンクはもともとミントンズのハウスピアニストでビーバップムーブメントの真っただ中にいたのに、少し違った雰囲気を持っているように門さんには見えた。
みんなが帰ったあとでも、モンクは一人ピアノに向かっていることがよくあった。作曲しているのだ。
門さんは静かにそのそばでモンクの指の動きを見、その音を聞いている。モンクは門さんをかわいがってくれ小門使いをさせたり、たまにはピアノを教えてくれた。
モンクもピアノを習ったことはないそうだ。
見よう見まねで自分のピアノを創り上げてきたのだ。
ビーバップの人気が高まるにつれ、レコードもどんどんつくられ、チャーリーパーカーやディジー・ガレスビーに続いてモンクにもレコーディングのチャンスが訪れた。
ブルーノートが力を入れ「ラウンド・ミッドナイト」と「エビストロフィー」の二枚が発売され、
キャンペーンとしてヴィレッジバンガードを一週間貸切ってライブコンサートがおこなわれた。
が、レコードは売れず、客もまばらであった。
モンクの音楽は聴衆に認められなかったのである。
そしてバドパウエルから預かった麻薬を警察に見つかり刑務所にぶち込まれ、ジャズクラブで仕事をするのに必要なキャバレーカードを取り上げられてしまう。
失われたのはモンクの希望と収入だけではない。大きなモダンジャズの潮流のなかでモンクの姿はなく、モンクの名は忘れ去られていたのである。
チャーリーパーカーやバドパウエルが麻薬で失墜した後、モダンジャズをけん引してゆくのはマイルスデイビズであった。
モンク作曲の「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」をミュート(消音トランペット)で吹いて大喝采を浴びたマイルスは
レコードをどんどん出し飛ぶように売れた。
飛ぶ鳥を落とす勢いのマイルスのモダンジャズカルテットとの共演レコードの吹込みに際してジョンルイスでなくモンクをあえて指名したのは、敬愛するモンクの窮状にすこしでも役立てばという親切心からであった。
マイルスと文句のケンカセッションとして名高いこのレコーディングは一九五四年のクリスマスイブの昼にスタジオで録音され、その日の夜にはニューヨーク中のジャズクラブは二人のこぶしが飛び交ったとか、マイルズがモンクをなぐったとかいう
噂でもちきりになった。
モンクは連れられてスタジオに居合わせた門さんによる真相はこうであった。
モンク・ミルトシャクソン、バーシー・ヒーズ、ケニー・クラークはもともとミントンズのメンバーで旧友たちの集まりのようになごやかであった。対してマイルスは後輩であり、少し違和感があった。
録音が進むにつれ、マイルスがだんだんナイーブになってきた。吹きにくいのだ。特にモンクの音に対して神経質になってきた。緊張感が漂う。
「ザ・マン・アライブ」の録音の前にマイルスは
モンクに向かって吹いている間は弾かないでくれと言った。二人はしばし無言で向き合っていた。
「ふっ」とモンクは笑みをもらし「それがよかろう」といった。

「バグス・グループ」でのマイルスの音は
綿密に創り上げられた芸術品のようだ。
対してモンクの音は南太平洋を吹き渡る風、孤島に打ち寄せる波のようだ。
舞が効いた音である。

長い間不遇をかこっていたモンクも
ニカ候爵夫人やレコード関係者たちの尽力で無実を認められキャバレーカードを取り戻しライブ活動も再びできるような見通しとなった。
才能あふれるこの美しい女性はチャーリーパーカーをはじめ、ミュージシャンたちのパトロンとして活躍しモダンジャズ創出に多大な力となった。
ニカはモンクの才能を愛し、当初から助力を惜しまなかった。そしてモンク復帰の前祝いパーティがニカ候爵の邸宅で
ニューヨーク中のジャズ関係者を集めて催された。ジャズクラブのオーナー達やレコード関係者、主だったミュージシャンたちが大広間に集まった光景は壮観だった。
ニカの演奏の後、記念の演奏がおこなわれた。モンクのピアノに対してトランペット、マイルズディビス、クリフォードブラウン、テナーサジクス、ソニーロリンズ、ジョン・コルトレーン、ベースボールチェンバス、ドラムス、アートブレーキーというメンバーだ。曲は「エピストロフィー」
ブレイキーのドラムのイントロで曲は始まった。
四人のフロントホーンが一系乱れずメロディを吹く。
「ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ドンドン、これからいいことが、
ドンドン、これからいいことが、
ドンドン、これからいいことばかり、
これから人生、バラ色人生、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
門さんにこのように聞こえた。
モンクのソロが最初だ。ゆったりとして音数も少なく、それでいて暖かく豊かなピアノ。
次はトランペットセンセイション、クリフォドブラウン。
彗星のごとく現れてニューヨーク中を魅了した天才トランぺッター。すばらしいテクニックと詩情あふれる表現の音に居合わせた人々は感嘆のため息をもらす。
ソニーロリンズが続く。革新的なテナーの音でモダンジャズを切り開いていく男だ。
若きベーシスト、ポールブレスキーのドラムの出番だ。
「ボルケイノ」と呼ばれる力強い太鼓の音。
リズム、間。モンクのピアノとのかえあい。
モンクのピアノもドラムのように。
ドラムの爆発のあとコルトレーンのサックスだ。
太く暖かい音とその速さ、テクニック。
最期はマイルスがミュートを吹く。
この天才ミュージシャン達を締めくくる。
そしてテーマにもどり曲は終わった。
会場は割れんばかりの拍手と称賛の嵐。
誰もがジャズの最高潮。
ジャズの黄金を感じた瞬間だった。

門さんの話はつきないけれど
舞たちとの楽しい語らいの夜も更けてきた。
今夜はこの辺りにして次回会おう。
そうそう、クリフォードブラウンはこのパーティの数日後に自動車事故で帰らぬ人となった。
「最高のトランぺッターは?」という問いに対して、クリフォードブラウンと答える人は今なお多い。
モンク復帰の皮切りはファイブスポットカフェでの長期ライブ出演であった。
コルトレーンをようしたこの伝説のカルテットを聞こうと連日長蛇の列ができた。
録音は残されていない。
レコードも矢づきばやに出し、高く評価され人気もでてきた。
聴衆がやっとモンクに追いついてきたのである。
映画「真夏の夜のジャズ」ではこのころのモンクの姿を見ることが出来る。
ステージで司会者がアナウンスする。
「みなさん!画期的な新人を紹介します。(モンクは37才である)
この人は音楽のことだけを考え、音楽だけのために生きているような男です。

私は素人なのでよくわかりませんが、
この人のピアノは音と音との間にある音、音階と音階のとの間にある音を探し求めているようです。
レディス、ゼントルマン、セロニアス・モンクです」
映像はステージのモンクトリオを映し出し
ブルーモンクが演奏される。
モンクカルテットはレコードにライブステージに人気を博していく。
ミントンズでの若者たちも、それぞれバンドを持ってジャズシーンの中で活躍していく。
門さんは日本に帰り、横浜でジャズピアニストとして活躍する。日本も空前のジャズブームでミュージシャンは引く手あまたであった。
ニューヨークの空気を肌で身に着けた門さんのピアノは高く評価された。
そのうち横浜の片すみに小さなジャズクラブをもち、演奏と後進の指導に力を尽くした。
誰もがジャズの人気と栄光がこのまま続くものと思っていた。時が経った。
集落の施しは六十年代後半から現れた。
フリーの迷路に迷い込んだからだとも言われている。
そうではない。
エレキサンウンドの台頭とシンセサイザーの出現である。
シンセサイザー一台で何人分のミュージシャンの仕事ができる。
音量とリズムは正確無比だ。
マイルスデイビスはいちはやくエレキサウンドを取り入れ、それに続くハーヒーハンコックやチックコリアといった人たちが伝統的なピアノの音を捨て、シンセサイザーに傾倒してゆく。ヒュージョンミュージシャンと言われる。
ピアノの生の音はかき消され。
電子音があふれていた。
「ジャズは死んだ。」とつぶやかれた。
ジャズは死んだ、か。
門さんは思った。そうかも知れない。
我々は滅びゆくしかないのかも知れない。
電子音のあふれかえるこの時代
ジャズの伝統の灯を消さぬよう
孤軍奮闘する少数もいた。
だが滅び去るしかないのかもしれない。
月日が経った。

復活の動きはバブル経済に沸く日本で始まった。ブルーノートをはじめジャズクラブが新しくどんどんでき、アメリカから有名ではあるが、年を取って仕事のないジャズミュージシャンが多数来日して、かつてのような演奏を聞かせてくれた。
ウィントン・マルサスのような若く才能あふれるミュージシャンたちが電子音楽を排してエリントンやモンクのような曲とスタイルを推し進めて活動してゆく。
カーメンマクレーがモンクを歌う。
しだいに、ジャズライブステージでもシンセサイザーは使わずピアノとベースの生の弦の  音にもどっていった。聴衆も電子音にうんざりして居たのだ。
門さんには信じられない気もしたが
この上なく嬉しい現象であった。

今ではモンクの曲はスタンダードとして多くの人々に愛され、演奏し続けられている。
門さんがモンクに出会ってから七十年が経とうとしている。
「本物は滅びることはない。」
門さんは確信し、勇気づけられ、
今日も店を開け、ピアノに向かう。

(あとがき)
横浜駅・ジャズ・アンド・イタリアンダイニング・エルスウェーニョのモデルはミントンの店です。
無名ながら熱意のあるジャズミュージシャン達にどんどん演奏してもらいたいものです。
ライブブッキングやセッション情報はこのホームページでどうぞ。
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