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横浜駅ジャズ・アンド・イタリアンレストラン・エルスウェーニョの小説(四)
子供の時からピアノを習っていた舞は
クラシックピアノの腕もの腕もかなりのものだったが、ある時不思議な音色のピアノを聞いた。
喫茶店のバックミュージックでジャズの塩蔵が流れていたのがゆっくりとした堅実なベースドラムのリズムにのって
とてつもなく深いトランペットの音色。
どれに続くヴィブラホンの躍動感。
そしてピアノ。このピアノをどう形容していいのか。まるで子供のように無心で
無邪気な。それでいて世界を創出し、地の果て海のかなたまで見渡すような。
舞は一度きり聞いたその音にとりつかれ。
大学のジャズ研究会の門をたたいた。
ジャズ研でいろいろな仲間たちと
ジャズを研究したり学んだり塩蔵したりするうちに、その衝撃を受けた。ピアノはセロニアス・モンクだということもわかり、
モンクを中心にジャズを吸収していった。
舞たちのトリオのバンドも腕を上げ
横浜の小さなジャズクラブで演奏させてもらえることになった。
オーナーの門さんは舞たちの演奏を気に入り、終わったあとワインと食事を囲み、みんなでジャズ談義に花が咲いた。
無口な門さんもこの夜はいろいろな話を聞かせてくれた。
以下は門さんの語るジャズの黄金の物語である。
横浜大空襲で家族を失った門さんは
横浜港で船の積み荷を運ぶ仕事をしていたがアメリカの船の船低で疲れていて眠っている間に船はアメリカへ向かって出航してしまったのだ。
太平洋を渡る間、調達室で手伝いながら
食べさせてもらった。当時はこのようなことに大らかだった。
ロサンゼルスにおいて積み荷にまぎれて上陸し、ヒッチハイクでアメリカ大陸を横断する。
世界大戦を勝利し、
世界のリーダーたる自覚のアメリカ人は貧しい敗戦国の少年にやさしく
車はすぐに止まって乗せてくれたし
食べるものもそれほどには困らなかった。
当時はこのような時代であった。
ニューヨークにたどりついて、門さんは
ハーレムのミントンの店で住み込みの無給のボーイとしてやとってもらえた。東洋の小さな端正な顔たちとまじめな仕事ぶりをかわれて寝る場所と食事を得たのだ。
ミントンのレストランの奥はピアノ・ベース・ドラムのステージになっていた。ジャズを演奏していたが門さんにとってその音楽は聞いたことのない
変わった感覚のものだった。
若い黒人のミュージシャンたちがたくさんいる。店の営業が終わったあとも黒人たちがやってきて入り乱れて演奏している。
いったい何をやっているんだろう?
こんなにたくさんのミュージシャンたちが夜遅くまで集まって、ああだこうだと熱心にとりくんでいるものとは?
ジャズのルーツはアフリカの黒人のリズムだといわれる。新大陸発見の後、黒人たちは奴隷としてまず南アメリカへ連れてこられる。
この地で先住民とスペイン人と黒人の融合が集みラテン音楽が生まれる。
その後、アメリカ合衆国の独立後、黒人たちはアメリカ合衆国に連れてこられる。奴隷として。
南部の黒人綿花労働者たちの間で自分たち固有の音楽を生み出す動きがおこり、デキシーランドジャズとして確立される。
ルイ・アームストロングという大スターを得て、ジャズは世界中に認められ、新しいアメリカ音楽として発展していく。
その後、ベニーグッドマン楽団やグレンミラー楽団などのビックバンドを中心にスウィングジャズとして人気を博していく。
そしてデュークトリントとカウントペーシーという音楽的リーダーの出現。
ニューヨークはハーレムもダウンタウンも
ジャズであふれている。いたるところジャズクラブがあり、ジャズミュージシャンとジャズファンがひしめきあっていた。一九五〇年頃のことである。
門さんはミントンズの若い黒人ミュージシャンたちにもかわいがられていた。そこに出入りしていたたくさんのミュージシャンたち。
その中にはチャーリーパーカー、ディジー・ガレスビー、ミルトジャンクション、セロニアス・モンク、バトパウエル、ケニークラーク、アートブレスキー、少し遅れてマイルス・ディビス、マックスローチ、ルイブラウンといったその後のジャズを作りあげてゆく人たちもいた。夜、ジャズクラブやビックバンドでの仕事を終えて、
まだ吹き足りないミュージシャンたちがミントンの店に集まってくる。深夜遅くまで
入り乱れてセッション(演奏)が続く。
アフターアワーとも呼ばれる。
そして彼らの音楽をビーバップと呼び、
モダン・ジャズの誕生と言われる。
モダン・ジャズを最初に認めたのは
ヨーロッパの知性であった。
サルトルはニューヨークへ来てチャーリーパーカーと握手し賛辞を送った。パーカーは答えて
「サルトルさん、ぼくもあなたの音楽が大好きです」
といった。サルトルは自分の哲学が
音楽と呼ばれたことに喜んだ。
だんだんにモダン・ジャズはアバンギャルド(前衛芸術)として認められ、人気を得ていく。
セロニアス・モンクはもともとミントンズのハウスピアニストでビーバップムーブメントの真っただ中にいたのに、少し違った雰囲気を持っているように門さんには見えた。
みんなが帰ったあとでも、モンクは一人ピアノに向かっていることがよくあった。作曲しているのだ。
門さんは静かにそのそばでモンクの指の動きを見、その音を聞いている。モンクは門さんをかわいがってくれ小門使いをさせたり、たまにはピアノを教えてくれた。
モンクもピアノを習ったことはないそうだ。
見よう見まねで自分のピアノを創り上げてきたのだ。
ビーバップの人気が高まるにつれ、レコードもどんどんつくられ、チャーリーパーカーやディジー・ガレスビーに続いてモンクにもレコーディングのチャンスが訪れた。
ブルーノートが力を入れ「ラウンド・ミッドナイト」と「エビストロフィー」の二枚が発売され、
キャンペーンとしてヴィレッジバンガードを一週間貸切ってライブコンサートがおこなわれた。
が、レコードは売れず、客もまばらであった。
モンクの音楽は聴衆に認められなかったのである。
そしてバドパウエルから預かった麻薬を警察に見つかり刑務所にぶち込まれ、ジャズクラブで仕事をするのに必要なキャバレーカードを取り上げられてしまう。
失われたのはモンクの希望と収入だけではない。大きなモダンジャズの潮流のなかでモンクの姿はなく、モンクの名は忘れ去られていたのである。
チャーリーパーカーやバドパウエルが麻薬で失墜した後、モダンジャズをけん引してゆくのはマイルスデイビズであった。
モンク作曲の「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」をミュート(消音トランペット)で吹いて大喝采を浴びたマイルスは
レコードをどんどん出し飛ぶように売れた。
飛ぶ鳥を落とす勢いのマイルスのモダンジャズカルテットとの共演レコードの吹込みに際してジョンルイスでなくモンクをあえて指名したのは、敬愛するモンクの窮状にすこしでも役立てばという親切心からであった。
マイルスと文句のケンカセッションとして名高いこのレコーディングは一九五四年のクリスマスイブの昼にスタジオで録音され、その日の夜にはニューヨーク中のジャズクラブは二人のこぶしが飛び交ったとか、マイルズがモンクをなぐったとかいう
噂でもちきりになった。
モンクは連れられてスタジオに居合わせた門さんによる真相はこうであった。
モンク・ミルトシャクソン、バーシー・ヒーズ、ケニー・クラークはもともとミントンズのメンバーで旧友たちの集まりのようになごやかであった。対してマイルスは後輩であり、少し違和感があった。
録音が進むにつれ、マイルスがだんだんナイーブになってきた。吹きにくいのだ。特にモンクの音に対して神経質になってきた。緊張感が漂う。
「ザ・マン・アライブ」の録音の前にマイルスは
モンクに向かって吹いている間は弾かないでくれと言った。二人はしばし無言で向き合っていた。
「ふっ」とモンクは笑みをもらし「それがよかろう」といった。
「バグス・グループ」でのマイルスの音は
綿密に創り上げられた芸術品のようだ。
対してモンクの音は南太平洋を吹き渡る風、孤島に打ち寄せる波のようだ。
舞が効いた音である。
長い間不遇をかこっていたモンクも
ニカ候爵夫人やレコード関係者たちの尽力で無実を認められキャバレーカードを取り戻しライブ活動も再びできるような見通しとなった。
才能あふれるこの美しい女性はチャーリーパーカーをはじめ、ミュージシャンたちのパトロンとして活躍しモダンジャズ創出に多大な力となった。
ニカはモンクの才能を愛し、当初から助力を惜しまなかった。そしてモンク復帰の前祝いパーティがニカ候爵の邸宅で
ニューヨーク中のジャズ関係者を集めて催された。ジャズクラブのオーナー達やレコード関係者、主だったミュージシャンたちが大広間に集まった光景は壮観だった。
ニカの演奏の後、記念の演奏がおこなわれた。モンクのピアノに対してトランペット、マイルズディビス、クリフォードブラウン、テナーサジクス、ソニーロリンズ、ジョン・コルトレーン、ベースボールチェンバス、ドラムス、アートブレーキーというメンバーだ。曲は「エピストロフィー」
ブレイキーのドラムのイントロで曲は始まった。
四人のフロントホーンが一系乱れずメロディを吹く。
「ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ドンドン、これからいいことが、
ドンドン、これからいいことが、
ドンドン、これからいいことばかり、
これから人生、バラ色人生、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
門さんにこのように聞こえた。
モンクのソロが最初だ。ゆったりとして音数も少なく、それでいて暖かく豊かなピアノ。
次はトランペットセンセイション、クリフォドブラウン。
彗星のごとく現れてニューヨーク中を魅了した天才トランぺッター。すばらしいテクニックと詩情あふれる表現の音に居合わせた人々は感嘆のため息をもらす。
ソニーロリンズが続く。革新的なテナーの音でモダンジャズを切り開いていく男だ。
若きベーシスト、ポールブレスキーのドラムの出番だ。
「ボルケイノ」と呼ばれる力強い太鼓の音。
リズム、間。モンクのピアノとのかえあい。
モンクのピアノもドラムのように。
ドラムの爆発のあとコルトレーンのサックスだ。
太く暖かい音とその速さ、テクニック。
最期はマイルスがミュートを吹く。
この天才ミュージシャン達を締めくくる。
そしてテーマにもどり曲は終わった。
会場は割れんばかりの拍手と称賛の嵐。
誰もがジャズの最高潮。
ジャズの黄金を感じた瞬間だった。
門さんの話はつきないけれど
舞たちとの楽しい語らいの夜も更けてきた。
今夜はこの辺りにして次回会おう。
そうそう、クリフォードブラウンはこのパーティの数日後に自動車事故で帰らぬ人となった。
「最高のトランぺッターは?」という問いに対して、クリフォードブラウンと答える人は今なお多い。
モンク復帰の皮切りはファイブスポットカフェでの長期ライブ出演であった。
コルトレーンをようしたこの伝説のカルテットを聞こうと連日長蛇の列ができた。
録音は残されていない。
レコードも矢づきばやに出し、高く評価され人気もでてきた。
聴衆がやっとモンクに追いついてきたのである。
映画「真夏の夜のジャズ」ではこのころのモンクの姿を見ることが出来る。
ステージで司会者がアナウンスする。
「みなさん!画期的な新人を紹介します。(モンクは37才である)
この人は音楽のことだけを考え、音楽だけのために生きているような男です。
私は素人なのでよくわかりませんが、
この人のピアノは音と音との間にある音、音階と音階のとの間にある音を探し求めているようです。
レディス、ゼントルマン、セロニアス・モンクです」
映像はステージのモンクトリオを映し出し
ブルーモンクが演奏される。
モンクカルテットはレコードにライブステージに人気を博していく。
ミントンズでの若者たちも、それぞれバンドを持ってジャズシーンの中で活躍していく。
門さんは日本に帰り、横浜でジャズピアニストとして活躍する。日本も空前のジャズブームでミュージシャンは引く手あまたであった。
ニューヨークの空気を肌で身に着けた門さんのピアノは高く評価された。
そのうち横浜の片すみに小さなジャズクラブをもち、演奏と後進の指導に力を尽くした。
誰もがジャズの人気と栄光がこのまま続くものと思っていた。時が経った。
集落の施しは六十年代後半から現れた。
フリーの迷路に迷い込んだからだとも言われている。
そうではない。
エレキサンウンドの台頭とシンセサイザーの出現である。
シンセサイザー一台で何人分のミュージシャンの仕事ができる。
音量とリズムは正確無比だ。
マイルスデイビスはいちはやくエレキサウンドを取り入れ、それに続くハーヒーハンコックやチックコリアといった人たちが伝統的なピアノの音を捨て、シンセサイザーに傾倒してゆく。ヒュージョンミュージシャンと言われる。
ピアノの生の音はかき消され。
電子音があふれていた。
「ジャズは死んだ。」とつぶやかれた。
ジャズは死んだ、か。
門さんは思った。そうかも知れない。
我々は滅びゆくしかないのかも知れない。
電子音のあふれかえるこの時代
ジャズの伝統の灯を消さぬよう
孤軍奮闘する少数もいた。
だが滅び去るしかないのかもしれない。
月日が経った。
復活の動きはバブル経済に沸く日本で始まった。ブルーノートをはじめジャズクラブが新しくどんどんでき、アメリカから有名ではあるが、年を取って仕事のないジャズミュージシャンが多数来日して、かつてのような演奏を聞かせてくれた。
ウィントン・マルサスのような若く才能あふれるミュージシャンたちが電子音楽を排してエリントンやモンクのような曲とスタイルを推し進めて活動してゆく。
カーメンマクレーがモンクを歌う。
しだいに、ジャズライブステージでもシンセサイザーは使わずピアノとベースの生の弦の 音にもどっていった。聴衆も電子音にうんざりして居たのだ。
門さんには信じられない気もしたが
この上なく嬉しい現象であった。
今ではモンクの曲はスタンダードとして多くの人々に愛され、演奏し続けられている。
門さんがモンクに出会ってから七十年が経とうとしている。
「本物は滅びることはない。」
門さんは確信し、勇気づけられ、
今日も店を開け、ピアノに向かう。
(あとがき)
横浜駅・ジャズ・アンド・イタリアンダイニング・エルスウェーニョのモデルはミントンの店です。
無名ながら熱意のあるジャズミュージシャン達にどんどん演奏してもらいたいものです。
ライブブッキングやセッション情報はこのホームページでどうぞ。
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