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エルスウェーニョ横浜駅ジャズ&イタリアンレストラン マスターファンタジービッキーとユーリのユルメ探訪 第25 話2016.03.12

  1. エルスウェーニョ横浜駅ジャズ&イタリアンレストラン マスターファンタジービッキーとユーリのユルメ探訪 第25 話

 

 

オリンポス神殿の大広間のダイニングテーブルで
ビッキーとユーリは神々と一緒に食事を楽しみながら
3-Dシアターで映像を見ている。
映像はアテネの街を映し出す。
まるでそこにいるかのような臨場感だ。
アテネの街の中を広場の祭壇で
ホメロスの詩は続く。
「ムーサの女神よ。詩の女神よ。
我に歌わせたまえ。ヘレネの愛らしさと
ペルセウスとメデューサの物語を。」
メネラウスの王宮でヘレネは少女たちと一緒に暮らしている。
歌を歌ったり踊りを踊ったりしながら、
幸せな日々を送っていた。
王宮には色々な人が訪れてくる。
宴が催されお酒や食事が並べられ、
ヘレネ達少女合唱団が歌う。
ある時ペルセウスという男が訪れてきた。
もうかなり歳をとっているが昔は英雄として有名だった。
ペルセウスはヘレネ達若い者たち相手に
昔の冒険の話を語ってくれた。
アルゴス王 アクリシオスはダナエと言う美しい娘がいたが
孫に殺されるであろうと言う信託があったので
ダナエを石の壁の部屋に閉じ込めて誰も中へ入れないようにしていた。
しかし、全能の神ゼウスは黄金の雨の雫となって石の天井から侵入し
ダナエと交わる。そうして生まれた子供がペルセウスである。
ペルセウスはいわばヘレネのお兄さんである。
海に流された赤ん坊のペルセウスは
漁師に拾われたくましい若者に成長した。
ペルセウス最初にして最大の冒険は
ゴルゴン3姉妹の末娘メデューサの首を取るということだった。
メデューサは、その顔を一目でも見たものは
石になってしまうという恐ろしい怪物女として恐れられていた。
よってメデューサの顔を知るものは誰1人としていない。
ペルセウスは恐ろしかったが、やり遂げなければならない。
メデューサのいる洞窟に入り
剣を持って盾にメデューサを写して首を切ろうとした。
そして盾に写るメデューサの顔を見てはっとした。
「なんと美しい女だ。」
直接顔を見る事はできない。
見ては石になってしまう。
だがこれほど美しい女がいるとは。
美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)と瓜二つだ。
「メデューサよ、私はペルセウス。
お前の首を取りに来た。
だがこれほど美しい女だと思いもよらなかった。」
「ペルセウス、あなたを待っていました。
いつか来てくれるだろうと。
私たちゴルゴンの3姉妹は美の3女神
アテナ、アルテミス、アフロディーテの影なのです。
末の娘の私はアフロディーテと同じ顔。

しかしながら女神たちは私たちの美しさを隠すため、
私の顔を見たものは石になってしまうようにしたのです。
ペルセウス、
私の頭に女神からもらった袋を、
本当ならあなたが討ち取った、

私の首が入るはずだったその袋を
被せて連れて行ってください。
私はあなたのしもべとなります。」
「メデューサ、美しい人
私の妻として連れて行く。
お前の顔を見ることができないが。」
ペルセウスは袋をかぶったメデューサの手を引いて旅を続けた。
2人は心から愛し合ったが
ペルセウスはメデューサの美しい顔を見ることはできない。
見れば石になってしまうのだ。
旅の途中
海岸の岩に1人の女が繋がれている。
黒い肌だ。
「黒く美しい人、なぜこのようなところで、
このように繋がれている?」
ペルセウスが尋ねる。
「私はアンドロメダ。エチオピアの王女です。
母のカシオペアが海のニンフをバカにしたので、
海のニンフは怒って怪物を送って、
エチオピアを荒らし回りました。
怪物の怒りを沈めるため
私は生贄となって繋がれているのです。
もうすぐ怪物が来ます。
どうか助けてください。
あなたにすべてを捧げます。」
メデューサが進み出て
ペルセウスに告げる。
「ペルセウス、愛する人。
私がこのアンドロメダの身代わりになります。
この人を妻として連れて行ってください。」
「お前は?
このあとどうする?」
「私はあなたに愛されて幸せでした。
でも私は怪物。
海の怪物を石にして退治してから

ディアミール巨神のところでお世話になろうと思います。
ディアミール巨神はもともと岩ですから
私を見ても何ともありません。

急いで、
すぐそこに海の怪物が来ています。
さあ、2人で行って。
お幸せに。
さようならペルセウス」
メデューサは頭の袋を投げ捨て
迫り来る海の怪物をむかえた。

 

第25話おわり

ホワイトディ エルスウェーニョ横浜駅ジャズ&イタリアンレストランでのビッキーとユーリのグルメ探訪第21話2016.03.11

  1. ホワイトディ エルスウェーニョ横浜駅ジャズ&イタリアンレストランでのビッキーとユーリのグルメ探訪第21話

 

3月14日はホワイトディ。
バレンタインのお返しに男性が女性にプレゼントをする日だ。
ビッキーはユーリを誘って横浜駅から歩いてすぐのイタリアンレストランエルスウェーニョにやってきた。
奥のテーブルに座ってユーリは
「今日は何にしようかな」
とウキウキしている。
「ホワイトデーだから白ワインにしよう」
とビッキー。
持ってきてくれたワインはイタリアのプーリア州のカステッリ・セウェリーノ。
春らしいフレッシュなフルーツの香りに独特の苦味と渋みがよく合っている。
ファランギーナという珍しい葡萄を使っている。
こういうワインには真っ白のモッツァレラチーズと真っ赤なトマトのカプレーゼがよく合う。
「だいぶ暖かくなってもう春ね。」
とユーリがにっこりしてパクパク食べる。
春はみんなを幸せにしてくれるのだ。
次の料理は春キャベツと菜の花とサーモンのホワイトクリームパスタ。
デュラムセモリナ粉を
水でこねていちにち寝かせてから綿棒で薄く平たく伸ばして包丁で切る。
特別の浄水器で作るおいしい水を大鍋にたっぷり入れて
強火で沸騰させる。
ほんの少し塩を入れて切った麺を入れる。
麺が入った瞬間にお湯の温度が下がらないことが大事だ。
下茹でしたキャベツと菜の花を
サーモンと一緒に生クリームで温め
茹で上がったパスタとあえる。塩と胡椒を少し。
「おいしい、おいしい」
とユーリはパクパク食べている。ビッキーも食べる。
「あー、おいしかった」とユーリ。
食事が終わった。
ビッキーとユーリのテーブルに
江野さんがやってきた。
「やあ、ビッキーくん、ユーリちゃん
春になって来たね。
ますます楽しくなるね。
はい、これ、ユーリちゃんへ」
と言って手作りのバタークッキーを出してくれた。
焼きたてでまだ暖かい。
「わぁ、ありがとう」
とユーリは幸せそう。
こうしてイタリアンレストラン エルスウェーニョで
ビッキーとユーリはホワイトデイを楽しく過ごしていた。
第21話終わり

エル・スウェーニョ 横浜駅 ジャズアンドイタリアンレストラン ビッキーの論説 ギリシャ神話 第二章 神々の概観2016.02.29

  1. エル・スウェーニョ 横浜駅 ジャズアンドイタリアンレストラン ビッキーの論説 ギリシャ神話 第二章 神々の概観

 

後編

 

とにかく、ギリシャの神々は、人間らしいという点でその宗教性が批判されてきた。
特にキリスト教のごとく、自分の教義だけが心理であるとする全く不寛容な宗教が世界の多くを支配すると、それまでにあった、ギリシャの神々のような多神教はただちに虚偽で険悪するべきものとされた。
さらに、宗教学の方面ではギリシャの神々が姿を持つものとして存在し、神殿や彫刻などで偶像として崇拝される点で、キリスト教の立場からされてきた。
例えばヘーゲルの「歴史哲学講義」から引用すると、
「キリスト教と比較して、ギリシャ宗教の真の欠陥は、キリスト教においては現れるということが、神的なものの一つの契機として想定されているのに過ぎないのに、ギリシャ宗教においては、現れるということが最高の存在様式であり、実に神的なるものの全体をなしているということである。
キリスト教においては、現れたる神は死し、自己を止揚するものとして定立されている。
キリスト死して初めて、神の右手に坐せるものとして示される。
これに反してギリシャの神は、ギリシャ人にとって、現れのうちに永続的に存在するものであり、大理石や金属や木材のうちに、または空想の像として表像のうちに存在するにすぎないのである。」
なるほど主なギリシャの神々はその姿をはっきり見ることができる。
最初は詩の描写によって、そしてそれをもとにして彫刻、絵画によって、はっきりとした姿が描かれている。
このように神が姿を持つことが、宗教性の面で欠点となるかどうかは立ち入ることができないが、後のゲーテはアポロン像の前に立った時、崇高な神の光を見出したと言われているし、ゲーテのごとく高貴な精神が、ギリシャの神々の姿に神的なものを見るという例は、シラーやバイロンやその他多数の人々にも共通しており、また、我々日本人にとっては仏像に崇高な宗教性を見るというような例もあり、必ずしも、ヘーゲルのことばがすべて正しいとはいえないと思われる。
古代ギリシャでは、神々に捧げる多くの祭儀が生活の中で生きており、紀元後一世紀のころ、使徒パウロはアテナィを訪れ、多くの偶像に憤りを感じたけれど、当時のギリシャ人があらゆる面で非常に宗教心に富んでいることに驚嘆している。
ゲーテも、ホメロスは、いつも神々との関係を保っていたのに対し、当時(中世)にキリスト教のしきたりがあったとはいえ、これらの人々には天上の光の反映は微塵も見られないと語ったと伝えられる。
つまり、古代ギリシャ人が敬虔という意味で、神に負うもの、神に帰属するものが、日常の生活の中で非常に大きかったといえるのである。
古代ギリシャ人は、人間の行動を決定するものを神々と信じていた。
それはホメロスの詩の中に最もよく表れたいる。
「イリアス」の中で、アキレウスは追いつめたヘクトールに、
「もう、おまえにはのがれる道は一つとしてないのだ。すぐにもおまえを、パラス・アテナが私の槍で討ちとるであろう。」
と語る。
自分が行為するのではなく、アキレウスにおいてはアテナが行為するものとされるのである。
我々なら自分自身の決断というべきところで、ホメロスはある神の出現を見る。
その時代のギリシャ人一般にも同じことがいえるのであり、つまり神々は、自然現象や運命的な事件に現れるだけでなく、人間をその内奥で動かすもののうちにも現れると考えられていた。
同じことが詩人たち自身にもいえる。
叙事詩は数百年の伝統的な言語技巧をもってホメロスによって完成されるが、ギリシャの神々は、まず最初に、詩人たちに、ムーサ女神たちによって啓示された。
ムーサ(ミュージックの語源)たちは、神話では野や山に住み、アポロンと共に詩と音楽を司る女神である。
古代では詩と音楽は密接な関係にあり、詩人は、ムーサの「下僕」と自ら名のり、詩人の口から語られる口唱叙事詩は、すべてムーサが詩人の口をかりて歌うとされていた。
「イリアス」の冒頭の句も、「怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの」と、ムーサへの呼びかけからはじまる。
ヘシオドスも、ムーサが彼のもとにやってきて、聖なる歌を吹き込んだと語り、以下神々の系譜を「神統記」において語る。
ホメロスやヘシオドスのごとく、詩人たちは自分が詩をつくるのではなく、ムーサ女神が歌うのだと実際に考えていたのだ。
これからのことは、現代の我々には理解しがたく、またそのような態度を崇高なもの認めにくいものであろう。
そこで次の文を引用したい。
「ギリシャ的人間は神々に満ちた世界に在るので、自己の内部に視線をそらせ、そこに行動の動機と責任の根源を求めたりはしない。
彼の視線は存在の偉大なる事物に向かって注がれ、我々が志操だとか意志だとかいうときに、いつも神々の生きた実在(レアリアート)に出会っている。
このことから心理学者たちは、彼らの概念は実存(エクシステニス)の狭い領域にまったく閉じ込められている馬鹿げた結論を引き出す、当時の人間は未だ精神的内面生活の深みを知らなかったのだと。
真実はといえば、ギリシャ人は実在の世界を、つまり一切の存在(ザイン)を内にたもつ神々を生き生きと経験することによって、現代では学問さえなかった自己投影の危険と禍いとに対して守られていたのである。
それゆえにこそ、ホメロスをはじめとするギリシャのすべての偉大な人物たちに見られる、あのような高邁な精神状態が生まれえたのである。」

W・F・オットー「神話と宗教」
ムーサ女神によって神々は初めて詩人たちに姿を現した。
詩人たち以前のギリシャ人には神の名と祭儀があっただけだったが、ホメロスと(シオドスが神々の由来や姿を描いて、それがギリシャ神話を形成していたっと伝えたれる。
ムーサのような若く美しい女神が告げる神々は、寛容で、威圧的なところは全くなく、神々の名において説く教義や聖典というものは存在せず、人々は神々に対する敬意を忘れなければ、神々をどのように考えようとかまわなかったにもかかわらず、これらの時代にほとんど不信仰は存在しなかったといわれている。
しかしながら、その後キリスト教が宗教世界で勝利をおさめるとともに、ギリシャの神々は軽蔑され、無視されてしまう。
この時の事情をニーチェはこう語る。
『その事件が起こったのは、このうえもなく神をなみすることばが一人のかみそのものによって言われた時である。そのことばというのはこうだ。
「神は一人あるだけである。おまえはわたしのほかにいかなる神をもいただいてはならぬ」
髯の濃い怒りの神、嫉妬の神が我を忘れてこう言ったのだ。
それを聞いて、神々のすべては哄笑し、めいめいの椅子を揺すぶって叫んだ。
「神々はあるが、唯一の神はいない。そういうことこそ神的なことではないか」と。』
神的なこととは?
絶対の主権、絶対的屈従の要求、嫉妬、不寛容、これらは真実人間的なことではないのか?
そして事物の存在の多様性にこそ、神的なものをギリシャ人は見た。

第二章 おわり

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