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横浜駅ジャズ・アンド・イタリアンレストラン・エルスウェーニョの小説(四)2015.12.11

横浜駅ジャズ・アンド・イタリアンレストラン・エルスウェーニョの小説(四)

子供の時からピアノを習っていた舞は
クラシックピアノの腕もの腕もかなりのものだったが、ある時不思議な音色のピアノを聞いた。
喫茶店のバックミュージックでジャズの塩蔵が流れていたのがゆっくりとした堅実なベースドラムのリズムにのって
とてつもなく深いトランペットの音色。
どれに続くヴィブラホンの躍動感。
そしてピアノ。このピアノをどう形容していいのか。まるで子供のように無心で
無邪気な。それでいて世界を創出し、地の果て海のかなたまで見渡すような。
舞は一度きり聞いたその音にとりつかれ。
大学のジャズ研究会の門をたたいた。

ジャズ研でいろいろな仲間たちと
ジャズを研究したり学んだり塩蔵したりするうちに、その衝撃を受けた。ピアノはセロニアス・モンクだということもわかり、
モンクを中心にジャズを吸収していった。
舞たちのトリオのバンドも腕を上げ
横浜の小さなジャズクラブで演奏させてもらえることになった。
オーナーの門さんは舞たちの演奏を気に入り、終わったあとワインと食事を囲み、みんなでジャズ談義に花が咲いた。
無口な門さんもこの夜はいろいろな話を聞かせてくれた。
以下は門さんの語るジャズの黄金の物語である。

横浜大空襲で家族を失った門さんは
横浜港で船の積み荷を運ぶ仕事をしていたがアメリカの船の船低で疲れていて眠っている間に船はアメリカへ向かって出航してしまったのだ。
太平洋を渡る間、調達室で手伝いながら
食べさせてもらった。当時はこのようなことに大らかだった。
ロサンゼルスにおいて積み荷にまぎれて上陸し、ヒッチハイクでアメリカ大陸を横断する。
世界大戦を勝利し、
世界のリーダーたる自覚のアメリカ人は貧しい敗戦国の少年にやさしく
車はすぐに止まって乗せてくれたし
食べるものもそれほどには困らなかった。
当時はこのような時代であった。

ニューヨークにたどりついて、門さんは
ハーレムのミントンの店で住み込みの無給のボーイとしてやとってもらえた。東洋の小さな端正な顔たちとまじめな仕事ぶりをかわれて寝る場所と食事を得たのだ。
ミントンのレストランの奥はピアノ・ベース・ドラムのステージになっていた。ジャズを演奏していたが門さんにとってその音楽は聞いたことのない
変わった感覚のものだった。
若い黒人のミュージシャンたちがたくさんいる。店の営業が終わったあとも黒人たちがやってきて入り乱れて演奏している。
いったい何をやっているんだろう?
こんなにたくさんのミュージシャンたちが夜遅くまで集まって、ああだこうだと熱心にとりくんでいるものとは?

ジャズのルーツはアフリカの黒人のリズムだといわれる。新大陸発見の後、黒人たちは奴隷としてまず南アメリカへ連れてこられる。
この地で先住民とスペイン人と黒人の融合が集みラテン音楽が生まれる。
その後、アメリカ合衆国の独立後、黒人たちはアメリカ合衆国に連れてこられる。奴隷として。
南部の黒人綿花労働者たちの間で自分たち固有の音楽を生み出す動きがおこり、デキシーランドジャズとして確立される。
ルイ・アームストロングという大スターを得て、ジャズは世界中に認められ、新しいアメリカ音楽として発展していく。
その後、ベニーグッドマン楽団やグレンミラー楽団などのビックバンドを中心にスウィングジャズとして人気を博していく。

そしてデュークトリントとカウントペーシーという音楽的リーダーの出現。
ニューヨークはハーレムもダウンタウンも
ジャズであふれている。いたるところジャズクラブがあり、ジャズミュージシャンとジャズファンがひしめきあっていた。一九五〇年頃のことである。
門さんはミントンズの若い黒人ミュージシャンたちにもかわいがられていた。そこに出入りしていたたくさんのミュージシャンたち。
その中にはチャーリーパーカー、ディジー・ガレスビー、ミルトジャンクション、セロニアス・モンク、バトパウエル、ケニークラーク、アートブレスキー、少し遅れてマイルス・ディビス、マックスローチ、ルイブラウンといったその後のジャズを作りあげてゆく人たちもいた。夜、ジャズクラブやビックバンドでの仕事を終えて、
まだ吹き足りないミュージシャンたちがミントンの店に集まってくる。深夜遅くまで
入り乱れてセッション(演奏)が続く。
アフターアワーとも呼ばれる。
そして彼らの音楽をビーバップと呼び、
モダン・ジャズの誕生と言われる。
モダン・ジャズを最初に認めたのは
ヨーロッパの知性であった。
サルトルはニューヨークへ来てチャーリーパーカーと握手し賛辞を送った。パーカーは答えて
「サルトルさん、ぼくもあなたの音楽が大好きです」
といった。サルトルは自分の哲学が
音楽と呼ばれたことに喜んだ。
だんだんにモダン・ジャズはアバンギャルド(前衛芸術)として認められ、人気を得ていく。

セロニアス・モンクはもともとミントンズのハウスピアニストでビーバップムーブメントの真っただ中にいたのに、少し違った雰囲気を持っているように門さんには見えた。
みんなが帰ったあとでも、モンクは一人ピアノに向かっていることがよくあった。作曲しているのだ。
門さんは静かにそのそばでモンクの指の動きを見、その音を聞いている。モンクは門さんをかわいがってくれ小門使いをさせたり、たまにはピアノを教えてくれた。
モンクもピアノを習ったことはないそうだ。
見よう見まねで自分のピアノを創り上げてきたのだ。
ビーバップの人気が高まるにつれ、レコードもどんどんつくられ、チャーリーパーカーやディジー・ガレスビーに続いてモンクにもレコーディングのチャンスが訪れた。
ブルーノートが力を入れ「ラウンド・ミッドナイト」と「エビストロフィー」の二枚が発売され、
キャンペーンとしてヴィレッジバンガードを一週間貸切ってライブコンサートがおこなわれた。
が、レコードは売れず、客もまばらであった。
モンクの音楽は聴衆に認められなかったのである。
そしてバドパウエルから預かった麻薬を警察に見つかり刑務所にぶち込まれ、ジャズクラブで仕事をするのに必要なキャバレーカードを取り上げられてしまう。
失われたのはモンクの希望と収入だけではない。大きなモダンジャズの潮流のなかでモンクの姿はなく、モンクの名は忘れ去られていたのである。
チャーリーパーカーやバドパウエルが麻薬で失墜した後、モダンジャズをけん引してゆくのはマイルスデイビズであった。
モンク作曲の「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」をミュート(消音トランペット)で吹いて大喝采を浴びたマイルスは
レコードをどんどん出し飛ぶように売れた。
飛ぶ鳥を落とす勢いのマイルスのモダンジャズカルテットとの共演レコードの吹込みに際してジョンルイスでなくモンクをあえて指名したのは、敬愛するモンクの窮状にすこしでも役立てばという親切心からであった。
マイルスと文句のケンカセッションとして名高いこのレコーディングは一九五四年のクリスマスイブの昼にスタジオで録音され、その日の夜にはニューヨーク中のジャズクラブは二人のこぶしが飛び交ったとか、マイルズがモンクをなぐったとかいう
噂でもちきりになった。
モンクは連れられてスタジオに居合わせた門さんによる真相はこうであった。
モンク・ミルトシャクソン、バーシー・ヒーズ、ケニー・クラークはもともとミントンズのメンバーで旧友たちの集まりのようになごやかであった。対してマイルスは後輩であり、少し違和感があった。
録音が進むにつれ、マイルスがだんだんナイーブになってきた。吹きにくいのだ。特にモンクの音に対して神経質になってきた。緊張感が漂う。
「ザ・マン・アライブ」の録音の前にマイルスは
モンクに向かって吹いている間は弾かないでくれと言った。二人はしばし無言で向き合っていた。
「ふっ」とモンクは笑みをもらし「それがよかろう」といった。

「バグス・グループ」でのマイルスの音は
綿密に創り上げられた芸術品のようだ。
対してモンクの音は南太平洋を吹き渡る風、孤島に打ち寄せる波のようだ。
舞が効いた音である。

長い間不遇をかこっていたモンクも
ニカ候爵夫人やレコード関係者たちの尽力で無実を認められキャバレーカードを取り戻しライブ活動も再びできるような見通しとなった。
才能あふれるこの美しい女性はチャーリーパーカーをはじめ、ミュージシャンたちのパトロンとして活躍しモダンジャズ創出に多大な力となった。
ニカはモンクの才能を愛し、当初から助力を惜しまなかった。そしてモンク復帰の前祝いパーティがニカ候爵の邸宅で
ニューヨーク中のジャズ関係者を集めて催された。ジャズクラブのオーナー達やレコード関係者、主だったミュージシャンたちが大広間に集まった光景は壮観だった。
ニカの演奏の後、記念の演奏がおこなわれた。モンクのピアノに対してトランペット、マイルズディビス、クリフォードブラウン、テナーサジクス、ソニーロリンズ、ジョン・コルトレーン、ベースボールチェンバス、ドラムス、アートブレーキーというメンバーだ。曲は「エピストロフィー」
ブレイキーのドラムのイントロで曲は始まった。
四人のフロントホーンが一系乱れずメロディを吹く。
「ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ドンドン、これからいいことが、
ドンドン、これからいいことが、
ドンドン、これからいいことばかり、
これから人生、バラ色人生、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
ラリララ~、ラリララ~、ラリララ~ラリララ~、
門さんにこのように聞こえた。
モンクのソロが最初だ。ゆったりとして音数も少なく、それでいて暖かく豊かなピアノ。
次はトランペットセンセイション、クリフォドブラウン。
彗星のごとく現れてニューヨーク中を魅了した天才トランぺッター。すばらしいテクニックと詩情あふれる表現の音に居合わせた人々は感嘆のため息をもらす。
ソニーロリンズが続く。革新的なテナーの音でモダンジャズを切り開いていく男だ。
若きベーシスト、ポールブレスキーのドラムの出番だ。
「ボルケイノ」と呼ばれる力強い太鼓の音。
リズム、間。モンクのピアノとのかえあい。
モンクのピアノもドラムのように。
ドラムの爆発のあとコルトレーンのサックスだ。
太く暖かい音とその速さ、テクニック。
最期はマイルスがミュートを吹く。
この天才ミュージシャン達を締めくくる。
そしてテーマにもどり曲は終わった。
会場は割れんばかりの拍手と称賛の嵐。
誰もがジャズの最高潮。
ジャズの黄金を感じた瞬間だった。

門さんの話はつきないけれど
舞たちとの楽しい語らいの夜も更けてきた。
今夜はこの辺りにして次回会おう。
そうそう、クリフォードブラウンはこのパーティの数日後に自動車事故で帰らぬ人となった。
「最高のトランぺッターは?」という問いに対して、クリフォードブラウンと答える人は今なお多い。
モンク復帰の皮切りはファイブスポットカフェでの長期ライブ出演であった。
コルトレーンをようしたこの伝説のカルテットを聞こうと連日長蛇の列ができた。
録音は残されていない。
レコードも矢づきばやに出し、高く評価され人気もでてきた。
聴衆がやっとモンクに追いついてきたのである。
映画「真夏の夜のジャズ」ではこのころのモンクの姿を見ることが出来る。
ステージで司会者がアナウンスする。
「みなさん!画期的な新人を紹介します。(モンクは37才である)
この人は音楽のことだけを考え、音楽だけのために生きているような男です。

私は素人なのでよくわかりませんが、
この人のピアノは音と音との間にある音、音階と音階のとの間にある音を探し求めているようです。
レディス、ゼントルマン、セロニアス・モンクです」
映像はステージのモンクトリオを映し出し
ブルーモンクが演奏される。
モンクカルテットはレコードにライブステージに人気を博していく。
ミントンズでの若者たちも、それぞれバンドを持ってジャズシーンの中で活躍していく。
門さんは日本に帰り、横浜でジャズピアニストとして活躍する。日本も空前のジャズブームでミュージシャンは引く手あまたであった。
ニューヨークの空気を肌で身に着けた門さんのピアノは高く評価された。
そのうち横浜の片すみに小さなジャズクラブをもち、演奏と後進の指導に力を尽くした。
誰もがジャズの人気と栄光がこのまま続くものと思っていた。時が経った。
集落の施しは六十年代後半から現れた。
フリーの迷路に迷い込んだからだとも言われている。
そうではない。
エレキサンウンドの台頭とシンセサイザーの出現である。
シンセサイザー一台で何人分のミュージシャンの仕事ができる。
音量とリズムは正確無比だ。
マイルスデイビスはいちはやくエレキサウンドを取り入れ、それに続くハーヒーハンコックやチックコリアといった人たちが伝統的なピアノの音を捨て、シンセサイザーに傾倒してゆく。ヒュージョンミュージシャンと言われる。
ピアノの生の音はかき消され。
電子音があふれていた。
「ジャズは死んだ。」とつぶやかれた。
ジャズは死んだ、か。
門さんは思った。そうかも知れない。
我々は滅びゆくしかないのかも知れない。
電子音のあふれかえるこの時代
ジャズの伝統の灯を消さぬよう
孤軍奮闘する少数もいた。
だが滅び去るしかないのかもしれない。
月日が経った。

復活の動きはバブル経済に沸く日本で始まった。ブルーノートをはじめジャズクラブが新しくどんどんでき、アメリカから有名ではあるが、年を取って仕事のないジャズミュージシャンが多数来日して、かつてのような演奏を聞かせてくれた。
ウィントン・マルサスのような若く才能あふれるミュージシャンたちが電子音楽を排してエリントンやモンクのような曲とスタイルを推し進めて活動してゆく。
カーメンマクレーがモンクを歌う。
しだいに、ジャズライブステージでもシンセサイザーは使わずピアノとベースの生の弦の  音にもどっていった。聴衆も電子音にうんざりして居たのだ。
門さんには信じられない気もしたが
この上なく嬉しい現象であった。

今ではモンクの曲はスタンダードとして多くの人々に愛され、演奏し続けられている。
門さんがモンクに出会ってから七十年が経とうとしている。
「本物は滅びることはない。」
門さんは確信し、勇気づけられ、
今日も店を開け、ピアノに向かう。

(あとがき)
横浜駅・ジャズ・アンド・イタリアンダイニング・エルスウェーニョのモデルはミントンの店です。
無名ながら熱意のあるジャズミュージシャン達にどんどん演奏してもらいたいものです。
ライブブッキングやセッション情報はこのホームページでどうぞ。
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横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(7)2015.12.06

横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(7)

ユーリは小さい頃からバレエを習っていた。
踊りが大好きである。
今はフラメンコに夢中だ。
フラメンコはギターとカンテとよばれる歌を伴奏に踊る。
激しい動き、ほとばしる情熱。
そして美しさ。
ユーリは横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョでフラメンコのライブをやることがあると聞いて
ぜひとも見たいと思うと同時にいつかあのオークのフロアの舞台で踊りたいと思った。
「すてきだろうなあ。」ギターが鳴り響き、哀愁を帯びた歌が雰囲気を盛り上げる。照明が落ち、暗闇の中にスポットライトを浴びて浮かび上がる。

観客のまなざしが注がれる。
緊張の時間。
ギターの前奏が響く。
歌と踊りが始まる。曲は「ブレリア」いっきに動き出す。激しく激しく激しく。
速く速く速く。
美しく。
踊り出したら我を忘れる。
回りも見えない。
自分をを照らす光だけ。
遠くの方でギターと歌が聞こえる。
遠い世界から響いてくる。
体が勝手に動く。
何も考えない。
体は私じゃないみたい。
心も私じゃないみたい。
踊る踊る踊る……
「ユーリ、どうしたんだい。」
ビッキーの声でユーリは我に返った。
ああ、そうだった。ビッキーと二人で
横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョの奥の大部屋の席でワインを飲んでいるところだった。
ワインはイタリアのダンサンテ。
ボトルのラベルにダンサーの踊るシルエットが描かれている。
優雅な絵と優雅な味の赤ワインだ。
テーブルには超熟プロシュートの皿。
「ねえ、ビッキー。ここでフラメンコをやるんだって。」
「へえー。すてきだな。ぜひみたいもんだ。」
「私は踊りたい。」
「一生懸命練習しないと踊れないぞ。」
「そうだね。」

次の料理が運ばれてきた。
ポルチーニのクリームパスタだ。
秋になるとイタリア全土でポルチーニ茸の香りが広がる。えもいわれぬ、山の幸の香りと味。
デュラム・セモリナ粉を水で練って、冬は一日置く。
夏は半日だ。気温によって小麦粉の熟成と発酵の時間は変わる。手早くめん棒で板上に伸ばす。厚さは均一でなければならない。
大きな包丁で一定の長さ、幅に切る。
長さ、幅の均一さもさることながら、最も大事なのは切り口の鋭さであろう。包丁人の腕は切り口で発揮される。
切り口の状態によって麺が引き締まり、小麦粉の味を引き立て、食感がよくなる。
茹で上がった手打ち生パスタを
生クリームで温めたポルチーニ茸にからめて
塩、胡椒して大きめの深い皿に盛る
「いい香り、秋の香りね。」
とユーリはうれしそう。
ポルチーニと生クリームと生パスタの香りと味が溶けあう。

目の前でジャズの演奏が始まった。
今夜はめずらしくギターとバイオリン。
そして女性ボーカルだ。
ジャンゴ・ラインハルトのようなジプシーギターの音色が響く。バイオリンはステファン・グラッベリを思い起こさせる。
流浪の民族ジプシー。
ギターとバイオリンを伴にしてユーラシア大陸からヨーロッパを渡り歩く。
どんな暮らしだったのだろう?
日本にも山家衆というジプシーのような人々がいた。
哀愁を帯びた女性の歌声。
ギターとバイオリンのメロディ。
ビッキーとユーリも横浜のこの地で
イタリアンレストラン・エルスウェーニョの奥の部屋で
ジプシーたちのようにギターを弾いて
踊りを踊る自分の姿を夢想したのであった。

              第七章おわり

横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(8)2015.12.06

横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(8)

ユーリはCDを聴いていた。オペラ・カルメン。
心を奪われるその素晴らしい歌声は
マリアカラス。
二十世紀最高のディーバ(女神)
最高の歌姫といわれている美しい女性。
オペラ、特にイタリア歌劇は永い歴史と
最高の音楽ときらびやかな舞台、テノールやソプラノのすばらしい歌で人々を魅了してきた。
時代はドミンゴ、カレーラス、パバロッティという三大テノールが大スターである。
マリアカラスはその存在感のあるすばらしい歌のみならず
恋多き美しい女性として多くの男性をとりこにし、浮名を流した。特に世界最高の富豪オナシスとの関係とその後のジャクリーヌ・ケネディ前夫人への敗退。
世界中のスキャンダルだった。

オペラは舞台で劇を演じながら音楽が演奏され、アリアと言われる歌を歌う。劇は素晴らしい名作が多い。
カルメン、椿姫、マノン・レスコー、など特に女性の主人公の文学作品がたくさんある。
音楽はこれはもう最高だ。
モーツァルトはオペラに対して最もその才能をつぎ込んだ。
ロッシーニやビゼー、ヴェルディ、ワーグナーなどの偉大な作曲家がオペラにその情熱を傾けた。
それからディーバ(ソプラノ)テノール。
伝説の歌手がミラノスカラ座やヴェネチアのフェニーチェ座の舞台で歌った。
イタリア語ほど音楽的な言葉はない。
美しい響きとイントネーション。
イタリア歌劇、つまりオペラは人類最高の文代芸術の一つとして世界中の人々に愛されている。

ユーリはマリアカラスの歌声を聞いて
オペラに夢中になった。
イタリアのミラノスカラ座でオペラを直接見たいと思った。
そんな所、東京国立教劇場でのミラノスカラ座の引越し公演の予定をきいて、あとさき考えずにチケットを二枚買った。ビッキーと一緒に行くんだ。
公演の夜。
ユーリはシフォンのワンピースに着替えて、スーツ姿のビッキーと連れ立って出かけた。
演目は「椿姫」
舞台の目の前のS席だ。
オーケストラを間に挟んで演ずる人たち
歌手たちの顔をよく見ることができた。
すばらしかった。
アリアがすばらしい。
「乾杯の歌」のすばらしいメロディと歌声。

初めて目のあたりにするオペラに
ビッキーもユーリも夢の世界にいるようだった。
夢から覚めて電車に乗って
二人は横浜駅に帰ってきた。
横浜駅から歩いてイタリアンレストラン・エルスウェーニョに向かった。もう一度夢の時間を持ちたい。
スウェーニョとは夢という意味である。
遅い時間だったので、江野一人カウンターに
立っていた。
「こんばんは」
「やあ、こんばんは」
ビッキーとユーリは初めてエルスウェーニョのカウンターバーに座った。
とてもいい雰囲気だ。客席のテーブルとはまた違ったおもむきだ。
江野の前に向き合って座ると
ユーリはちょっとドギマギした。
江野はバーテンダーとしてのキャリアもある。

たくさんのお酒のボトルを背にしてバーに立っている姿は恰好良かった。
「今夜はオペラを見てきたの」
「それはすばらしい。よかったでしょう」
「すばらしかったわ」
ビッキーはジントニックを注文する。
ユーリは思い切って
「赤のイメージで何かカクテルをつくってください」
といった。
江野はにっこりと笑って、
「では」といって何本ものリキュールを手早くシェイカーに入れ氷といっしゃにシャカシャカと振り、
ユーリの前のカクテルグラスに注いでくれた。
色は黒めの赤。
「おいしい。何て名前なんですか?」
「ディーバ」
三人ともにっこり笑って顔を見合わせた。

              第八章おわり
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横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(62015.12.06

横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(6)

ユーリはお肉が大好きである。
今度、横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョに行ったら、絶対イベリコステーキを食べようと思っている。
できては消え、できては消える横浜駅周辺のレストランの中で三十年近く続けているイタリアンレストラン・エルスウェーニョの絶品肉料理である。
人間が草食動物か肉食動物であるか議論の別れるところかもしれない。本来、ジャングルの木の上で暮らしていた人間の先祖がサバンナに降り立ち、手に槍と火を持つことによって、ライオンのように鹿を食うようになったのだ。
槍で鹿を追う人間は、世界中に広がり
鹿だけでなくマンモスまでも追いユーラシア大陸を旅し、陸続きのカムチャッカを渡りアメリカ大陸を北から南まで旅する。
あるいは魚を追ってコンティギ号のように大津波を渡る。
年月が立ち、やがてカメリーナをつくる人々、お米をつくる人々、羊の群れについてゆく人々がでてくる。

鳥や鶏の肉もよく食べられたし、
マホメットが禁ずるまで豚肉は世界中で食べられていた。
牛の肉はそれほどではなかった。
イギリス人のことをビーフィーター、つまり牛肉を食べる人と呼ぶのは一種の蔑称であった。
日本では動物を追う必要はなく海に魚や貝があふれていた。
仏教の教えでは食べることを殺生という。
人間が食べるという事は他の生きものを殺すことだ。
なるべく食べないようにしなければならない。
でも食べなければ自分が死ぬ。
で、手を合わせて「いただきます」と祈ってから食べる。
他の命を食べるのだ。
日本では永らく肉食は禁止されていた。
東京オリンピックで日本柔道がヘーシングに負けたのは肉を食べないせいだという政府の見解に基づいて、学校給食に肉がどんどん登場した。
鯨の肉である。

ハーマン・メルヴィルの不朽の名作「白鯨」では真っ白いマッコウクジラにたたきのめされ
片目片腕片足を失ったエイハブ船長が復讐に燃え、モービル・ディックを追って七つの海を渡る。
アメリカは太平洋の鯨を取りつくすため
蒸気船で日本までやってきて徳川幕府に
開港をせまる。捕鯨船の補給のためである。
土佐や紀伊の太地の村では、鯨を追う小舟のへさきに、もりうちの男が立つ。
一発で鯨をしとめれば、男は英雄となり
村はうるおう。
日本が捕鯨船で太平洋の鯨を取りに乗り出したころには鯨はだいぶ少なくなっていて、
まもなく世界中から鯨を絶滅させる悪者として
ふくろだたきにされることになる。
日本人が鯨の肉をたらふく食べた期間は短かかった。

「緑の革命」と呼ばれる農業技術、放逐技術の発達にともなって現代では食品があふれている。
肉も日常普通に食べられている。
だが肉自体の味は薄くなってきているように江野は思われる。
無味無臭に近づいてきているのだ。
イタリアのトスカーナのキアナ谷というところに
とてつもなく大きくて真っ白い牛がいる。
古代種の牛である。
その牛の背中の肉、ロースとフィレを横に骨ごと切る。
Tの形の骨に分厚い肉がはさまっている。
家畜をと殺するときはこわがらせてはいけない。
散歩するように連れてきてすぐに眠らせる。
家畜がこわがると恐怖のアドレナリンが肉に充満し、味が落ちるのだ。
肉を解体した後もすぐには切らずに大きなかたまりでつるしたまま熟成させる。
どれくらいの期間の熟成がその肉に最適であるかは肉職人の腕と感によるしかない。

熟成が進み、肉が最もおいしくなった時、
Tの時に分厚く切り、暖炉に火を入れる。
甘い香りのするクリの木やコナラの木を燃やす。
木が燃え、真っ赤なおき火になったころあいを見て、肉を火の上の五徳(網)に乗せる。
塩、胡椒はしてはいけない。
策に塩、胡椒をすると肉の柔らかみが失われるのだ
火の強さ加減と肉との距離で焼き加減が決まる。
職人の腕のみせどころである。
表の片面を強火で焼き、表面を固形させて
肉の汁を中に封じ込めて、味を逃がさないようにする
裏面も同じだ。それからゆっくりとミディアムレアに
火がとおるように焼く。焼きすぎても焼き足りなくてもいけない。焼き上がると塩と胡椒だけでいただく。
ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ

ビッキーとユーリは今夜も横浜駅から歩いてイタリアンレストラン・エルスウェーニョに訪れた。
いつもの店員、いつものシェフ、いつものカウンター、いつもの店内、いつもの光だ。
でも今夜はピアノはホールの真ん中に置かれていて、ピアノを回っていちばん左の奥のテーブルに座った。
レンガの壁にくっついたテーブルだ。奥まった感じで店内がすこし違って見えた。
江野がやってきて
「やあ、ビッキー君とユーリさん、こんばんは」
と迎えてくれた。
「今夜はどうします?」
「お肉が食べたーい」とユーリが甘える。
「じゃあイベリコステーキがいいかな」と江野。
「では、ステーキとサラダと、カメリーナをつけて、
あと赤ワインがいいな」
とビッキーが言う。
江野はカメリーナと呼んでもらえてうれしかった。

まずは赤ワインのボトルを江野が二人のテーブルで開ける。イタリアのプリミーティーボである。
トスカーナの南の山地のウンブリア州のワインだ。
ローカルでいなかじみた感じの印象の味がいい。豊かな味だ。
土の香りがする。
シェフのおまかせサラダが運ばれた。
大きな深いお皿にサニーカールとルッコラが盛られ周りに色とりどりに野菜が並らんでいる。
「きれい。」とユーリが言う。
真っ赤なトマト、赤、黄、オレンジのパプリカ、緑のピーマン、白い玉ねぎ、セロリ、オレンジ色のにんじん、茶緑のカルチョーフィ、紫色のナス、どれも江野が毎日煮込み、味を引きだし
味をととのえた野菜たちだ。
「このドレッシングおいしいわあ。
どうやってつくるのか聞いてみようかな」
とユーリが言うのをビッキーが制して、
「だめだよ。そんなこと聞いちゃ
プロの料理人の技術なんだから」
と言う。

イベリコステーキとカメリーナが来た。
ステーキは大きめのアンダーソーサーの上の熱せられた白い皿の上で、こげ茶色のソースがジューと音を立てていた。
このソースは江野がイベリコ生ハムの骨を一週間かけて煮込んでつくるオリジナルだ。
ナイフでステーキの肉を切ると厚みのある肉はうっすらとピンク色を漂わせる白い色で
ちょうど火がとおって焼きすぎない絶妙の焼き加減だ。
豚肉なので生ではいけない。焼きすぎても硬くなる。
一口食べてユーリは
「おいしいいい」と一言言って
もう一口食べる。
イベリコ豚はイベリア種というスペイン原産の黒豚だ。
野生の獣の香りをもつ。
現代の無味無臭の肉とは別物のような味だ。
ユーリはこういうものが好みだ。

赤ワインといっしょにふりかけて仕上げるソースは
濃厚なおいしさでここでしか味わえない。
カメリーナにつけて食べるとこれがまた最高である。
横浜駅イタリアンレストラン・エルスウェーニョのいちばん奥の奥のテーブルで、ビッキーとユーリの幸せな時間が過ぎてゆく。
ジャズの演奏が始まった。今夜はピアノのソロの演奏だ。「ミスティ」の曲がながれる。
ユーリはミスティックでロマンチックな気分で大好きなビッキーをながめていた。

              第六章おわり
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