純はぼんやりと思う。
何十年も前に、フランス、ボルド―の一地区、サンテミリオンの地でぶどうの実が赤く熟す。この地は先祖代々ワイン栽培の聖地だ。そのうえこの年はボトルワインに最適なきこうで、つまり日照が多く暑く、かつ秋が早い。ぶどうをあるいは植物を育てるのは自然の恵み。太陽の光と熱、雨と水、土壌の養分、ミネラル…それだけではない。青い空、白い雲、風のそよぎ、ふりかかる雨、鳥の声、蛙の声、蝉の声、コオロギの声、虫たちの接触、月の光、その満ち欠け、星のまたたき、そして人々の想い。
地主や農夫たちが共同でぶどうを摘む。きっとすばらしいワインができる期待を胸に。シャトーに移し、皮をもみ実をくだいて熟成させる。それを濾して樽に寝かせて待つ。それを濾してボトルに詰める。製法は秘伝だ。
そうしてできた一本がこのワインだ。
何十年の歳月を経て、多くの人々の手を経て、いま、東の果てのこの地にあり、述の手によって開けられ、注がれた。ワインは生きている。
何十年もの間、ボトルの中でしずかに眠っていて出番を待っている。後の生命の輝く瞬間を待っているのだ。
今、ワインは長い眠りから覚めた。
「おや、ここはどこだ。故郷より少し湿っぽいようだ。海の香りがする。どれくらい眠っていたのか。目の前に若く美しい東洋の女性が微笑んでいる。この人に飲まれるのか?最高だ。隣に妙な男が二人いるがまあこれはよしとしよう。覚こしてくれたのはこの美青年か。なかなかわたしのことをわかってくれているようだ」
女性が顔を近づけてきた。ドキドキ。ワインは細胞をいっぱいにふくらまし空気をとりこみ、その芳香を力の限り放つ。
「いい香り」
舞は鼻で吸い込んで、あまい吐息を吹きかける。ワインは生命の最高の瞬間への期待で震える。舞の唇が触れた瞬間、ワインは波立ち、口の中へ飛び込んでゆく。舌の上でころがされ、恍惚としてのどの奥へ流れ込み、そして落ちてゆくワインの花道。ワインのおいしさを表現することはできない。
「美味しい」
と舞はため息をつく。
高も純も述も
「美味しい」
と言う・
甘い、酸っぱい、苦い、辛い、渋い、いろいろの味の織りなすタペストリーボディが重いという。生命のちからがあふれていることだ。
枯れた味わいという。熟成が進んでいい味が出てくることだがこのワインの味わいを表現することができない。最もすばらしい美味は愛の制御によって生まれる。最もすぐれた感覚が、それぞれの味の持ち味を引き出し、それを制御し、美しいハーモニィに創りあげてこそ美味が生まれる。
これは何千年物人類の遺産。
このワインもこのようなもので、今ここで我々はひとつのすばらしい遺産を邂逅することができたのだ。
ひとしきりワインを味わい、料理も味わって楽しいひとときをすごしていった。若い者同士の青春の語らいにも花が咲き会話も進んでいった。やがて将来、何をするかという話になって、まず高が口をきった。
「商社に就職して、世界中飛び回って活躍したい。何十年かして実力をつけて政治の世界に進み。地方活性化に力を尽くしたいんだ。」
すばらしい。やはり言うことが違うな。続いて述。
「ワインインポーターになって世界のワインを輸入するんだ。特にモロッコとアルジェリアのワインを日本に輸入して紹介したい。先々は自分のワイン会社をたちあげたい。」
さすが君ならできる。
「私は」
舞が身を乗り出して話し始める。
「ジャズピアニストになりたいの。ニューヨークのジャズクラブで演奏するのが夢。バークレーに留学するつもりよ。」
えーニューヨークに行っちゃうの?
「純、君は?」
と述が声をかける。
「えっ、ぼく?えーっと…わからない。わからないんだ。就職もしたくないし、仕事もあまりしたくない。詩や小説を書きたいと思っているけど、何を書いたらいいのかわからないんだ。それで食べてゆけるかどうかもわからないし…」
「そのうちわかるさ」
と高が助け舟を出してくれる。
「そうだな、そのうちわかるよ」
と述。
「あなたならきっとすてきな小説が書けるわ」
と舞。
夜も更けてきておひらきになった。
楽しい夜だったね。
帰りぎわ、舞がそっと純にささやいた。
「純、絵本ありがとう。とってもすてきだったわ。大好き」
みんなと別れて純は帰り道幸せな気分だった。
明るい月が輝いていた。
舞ちゃんが大好きと言ってくれたのは絵本のことかな。それとも…
イベリコ
ユーラシア大陸の西の西の果て、
ピレネーのその南の果て、
ラ・マンチャの山の牧場で
2匹の子豚が生まれた
イベリオとイベリコである。
2匹はお母さんのお乳を吸いながら
すくすく育ち
数か月もすると茶色の毛も黒く生え変わり
たくましい若者と、それはそれは美しい乙女に成長した。
「イベリコ、さあ行くぞ。早く来い。」
「あーん、お兄ちゃんまってえー」
二人は元気に野山を駆け回って暮らした。
山はもう秋。
いろいろな木の実がたくさん。
イベリコたちの大好物はどんぐり。
どんぐりといっても日本の椎の実とは違って、
エンシーニョというひいらぎ種の実で
カシューナッツのような香りの柔らかい実である。
山全体が広大な牧場でイベリコたちは
そこで自由に駆け回ったり
木の実やハーブを好きなだけ食べたりして
暮らした。
犬の数倍鋭いといわれるイベリコたちの嗅覚は
地中のトリュフも捜し出す。
えもいわれぬ香りと無上のおいしさ。
人間たちの間でどれほど高価に取り引きされているかなどおかまいなしに
トリュフをむさぼり食べる。
そのように暮らして成長したイベリオとイベリコは
思春期をむかえ、自分たちの人生や将来のことを
思いめぐらすことになる。
それで二人は牧場主のスウェニョおじさんを訪ね、
自分たちの将来のことを聞きたいと申し出た。
「おお、イベリオとイベリコか。りっぱになったのぉ。」
スウェニョおじさんは笑顔で二人をむかえた。
「おじさん。ぼくたちこれからの将来、
どうなるのか聞きたいんだ。」
「そうかそうか。よしよし。イベリオ、おまえはたくましい若者になった。
これから妻をめとり、
子供をたくさん作って一族を増やし、
この山の王者として君臨するのだ。」
「うおー。やるぞー」
「いいなぁお兄ちゃんは。
おじさん。私もすてきな男の人と結婚できるんでしょうね?」
スウェニョおじさんはすこし顔をくもらせた。
「できないの?」
スウェニョおじさんはじっとイベリコをみつめ、
語りはじめました。
「イベリコ、よくお聞き。
おまえは、特に美しく生まれついた。
先のヨーロッパ美人コンテストでも、
ズィベロ村のクラテロ嬢と女王を別けあったほどの器量よしじゃ。
それは女神の賜物。
その美しさは女神そのものじゃ」
「………。」
「おまえは女神に捧げられるのじゃ。」
「私、死ぬの?」
「そうではない。肉体を捧げることによって永遠の命を得るのだ。」
「………。」
「この冬、わたしと妻のエルの手によって
おまえは、ハモン・イベリコ・デ・ベジョータに生まれ変わり、
世界最高の生ハムとして
人々の賞賛をあびることになるのだ。」
「………。」
「具体的な手順を言うとこの冬
おまえは清められ祭壇につるされる。
それまで身に傷を負ったり、
処女を失ったりしてはならん。
つるされたまま眠らされ
心臓を取り出され、血を抜かれる。
おまえの魂は肉体を離れその辺に浮遊してるが
案ずることはないすぐにもどれる。
おまえの肉体は解体されるが
なにひとつ捨てられるものはない。
おまえの体のどの部分も最高の食材として人々に待ち望まれるのだ。」
「………。」
「なかでも、おまえの健やかに伸びた美しい脚は最も人々の望むものじゃ。」
「わしがその二本の脚をていねいに切りとり特別な桶によこたえる。
妻のエルの手と塩で揉まれるのだ。それは三か月に及ぶ。
春になると二本の脚は先祖代々使われている
大きな梁につるされる。そこが最も適した場所。
つるされた脚は風と空気の生命が撫でる。
おまえの魂はここで脚にもどり、宿ることができる。
夏になると肉から水がポタポタ落ちる。
幾世代もの塩の水滴が床のテラコッタを窪ませる。
夏がすぎ秋がすぎ、冬になりそして春が来る、
そして次の年も。
脚の姿のおまえはそこで空気に愛撫されながら生きるのだ。」
「すごい…」
とイベリコが声をもらした。
「三年目の春におまえの真価が問われる。おまえが生きている間に、マックやジャンクフードを食べたり、農薬やホルモンの入った水や飲みものを飲んだり
へんな薬を飲んだりしてたら、
あるいは身の純潔を失ったり、
心に邪心を持っていたとしたら、
おまえの成長はここまででこれ以上の熟成は望めない。
特別に選ばれたものだけが三年の熟成に耐えられるのだ。」
「………。」
「見事、三年を美しく過ごした後、
おまえは美しく飾られ、
イスパニア王家の晩餐会の大テーブルの真ん中に置かれ、
世界中の人々の賞賛と羨望を一身に集め
世界で最高の美と食を実現するのだ。」
「すごい…」
とまたイベリオが声をもらす。
イベリコの頬を一筋の涙がつたわった。
「よくわかりました。
おじさん。ありがとう。
私、この冬まで一生懸命清らかに生きます。
さようなら、
ありがとう」
二人は無言で帰途についた。
夕闇がせまり山の上に赤い三日月がかかっていた。
エルスウェーニョマスターの小説 横浜駅ジャズアンドイタリアンレストラン
(六)夏の少年
夏だ。暑い。
早起きして広場で少年たちはラジオ体操をしています。
朝日がまぶしい。
桜の木々の上からシャッシャッシャシャシャと元気のよい声が聞こえてきます。心が躍る。
クマゼミだ。真っ黒でいちばん大きいやつ。
少年はクマゼミの声が大好きだ。
朝ごはんを食べてから、仲間とセミ取りに行きます。
セミ取り網のようなものはなく、長い竹の先に針金で丸く輪をつくり、大きなクモの巣のネバネバした網を巻き付け、木にとまっているセミのうしろからそっとベタっとくっつけるのです。
こういうことを少年たちは年上の男の子たちから教えられ、年下の子供たちに伝えていったのでした。
いろいろなセミがいます。七月になってまっさきに鳴くのは小さなニイニイゼミ。静かに岩にしみ入る声。
八月になるとジジジジジジ…と鳴くアブラゼミやクマゼミがいっせいに鳴きはじめ山はいっせいに夏、真っ盛りとなります。
夕方にはカナカナカナカナとこの世のものとは思えないようなさびしげな声のヒグラシが夜の到来を告げます。
盆を過ぎる頃からツクツクホウシが登場します。
何という変な鳴き方だ。
少年はミーンミーンミーンミーンという声を聞いたことがありません。
吸収にはいなかったのです。
おひるごはんを食べて、スイカを食べてから、円が合でお昼寝をします。
セミの声に混じってキリギリスも鳴いている…チョンギース、スース―スース―。
次の日も朝日が昇ります。
今日はどんぐり林へ行きます。
いるいるいっぱいいるぞ。
どんぐりの木の幹から木の汁が出ていて、大きな角のカブトムシやクワガタがひしめいています。
相手を押しのけて汁を吸っています。
スズメバチに気を付けさえすれば手で取り放題です。
しばらくカブトムシたちの様子を眺めています。
オスが汁を吸っているところへメスが来た。
驚くべきことにオスはメスにえさをゆずるのです。
オス同士だと角を付き合わせてケンカします。
相手がメスだとオスは必ずゆずります。
クワガタもそうだ。
メスが汁を吸っている間、その上にかぶさるようにして守っています。
男子たるものこうあるべきである。
クワガタムシにもいろいろ種類があって、角(アゴ)の長く曲がったノコギリクワガタ、平べったいヒラタクワガタ。小クワガタ。最大のオオクワガタ。
オオクワガタはどんぐりの幹と皮のすき間に自分の単穴をつくって隠れています。
穴からこちらに向けて角をかまえていて、指をはさまれようならものすごく痛い。
細い枝を差し出してオオクワガタがはさんだところを猫で角を押さえたまま引っ張り出すのです。
………
少年は今日は一人。
山をどんどん奥へ進みます。
セミの声が天から降りそそぐ、どんどん進んでゆく。
セミの声もどんどん大きくなる。
白い老人が現れた。
白い髪、白いひげ、白い着物。
こっちを見て微笑んでいる。
少年はこわくありませんでした。
「こども。せみとっちょるんか。」
「うん。」
「ほう、どれどれ、セミがすいちょるのお。」
「うん。」
「わしも好いちょる。」
「おじあんも?」
「ああ、すいちょる。」
「おじさん。」
「ん。」
「セミはなぜ鳴くんですか?」
「なぜ、セミは鳴くんか?と。かしこいこどもじゃのう。」
「学校の先生はオスがメスを呼ぶためと言っていたけどそんなふうには見えないし、メスはそばにいるのにあんなにやかましく鳴かないでもよさそうなもんだし。カブトムシは鳴かないし…。」
「そんとおりじゃ、こども、セミはどう気ゆうて鳴いちょるのかの?」
「セミがどう言ってるの?セミがことばを?」
「そうじゃ、セミは長い間の地中からやっと出てきて、短い命の限り鳴くんじゃ。
(夏だ、夏だ、光だ、光だ、世界だ、世界だ、生きろ、生きろ)
と世界に向かって歌っとるんじゃ。
木々に向かっては、
(ありがとう、ありがとう、ぼくたちを育ててくれてありがとう。ぼくたちの子供たちをよろしく)
と歌っとるんじゃ。
木々たちはセミのこの歌をきいてうれしくて枝葉をいっぱいに伸ばしていちだんと大きくなる。
森の虫や動物たちも血が熱くなり力いっぱい生きるんじゃ。
セミは神さまが選んで世界のために歌うようにつくられたんじゃ。」
「そうか。神さまが歌うようにつくらたのか」
少年はうれしくなりました。
「おじいさん、ありがとう、もう帰らなくちゃ、さようなら。」
少年は、山道を下ってゆきました。
途中で振り返ると老人の姿はもうありませんでした。
ゼミの声がいちだんと大きくなりました。
「ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ジュン、ガンバレ。」
少年にはこのように聞こえました。
(第六話 夏の少年おわり)