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前篇
さて、それでは、ギリシャの神々というのはどのようなものであったか、これから具体的にみていこう。
まず、主神として、また雷神としてゼウスが天を支配する。
ゼウスはもっとも偉大とされ、神々もゼウスにさからうことはできない。
ゼウスの兄弟で、ポセイドンは海を、ハデス(プルートン)は地下の冥界をそれぞれ支配する。
ヘラはゼウスの妻で、結婚の守り神である。
ゼウスの子供たちでは、知恵と技術の女神アテナ、ゼウスの伝令役のヘルメス、弓や音楽の神アポロン、愛と美の女神アフロディテ、狩猟の女神アルテミスなどがいる。
そのほかには、酒と演劇の神デュオニュソス、農耕の女神デメテル、巨神プロメテウスなどが有名である。
これらの神々は、いわば特定の性格を持ち、ある特定の分野を司る。
それに対して、自然現象そのものともいえる、ウラノス(天)、ガイア(大地)、ポントス(黒海)、ニュクス(夜)などや、また、死(タナトス)、睡眠(ヒュプノス)、闘争(エリス)、運命(モイラ)、恥(アイドース)といったような、抽象名詞がそのまま神となったものも多くある。
さらに、泉や森の木に宿る美しい妖精ニンフ(ニュンペー)、下半身山羊の姿のサテュロス、詩の女神ムーサ(ミューズ)などもある種の神とされている。
このほかにも神と名のつくものは数多くあるが、神話で活躍するのは、主に、ゼウスを中心とするオリュンポスの神々である。
ところで、このように神々を数えあげてゆくと、それらの多くが自然と関わりを持っているのがわかる。
ウラノス(天)やガイア(大地)のごとく、自然現象そのものといったものはもとより、エリス(闘争)、モイラ(運命)なおの抽象名詞の神も、人の力のおよばない自然の力とみなされているわけだし、オリュンポスの神々では、ゼウスは雷電や嵐、ポセイドンは海と自信、ハデスは地底と死の世界、アポロンは月桂樹を持ち、ヘルメスと共に牧場などと関係があるし、アフロディテは花咲きほこる春の日が似合い、アルテミスは神秘の森の中に住む。
ニンフなどは、泉や森の妖精として、いちばん自然の生気を体現する存在である。
実際、主なギリシャの神々のうちで、その自然のあるいは風土と関係のないものはほとんどないくらいなのである。
和辻哲郎「風土」によると、人格的な唯一神の信仰が成立したのは、砂漠の風土と関係があり、死せる砂漠には自然の恵みなどなく、自然と闘ってゆく人間集団にこそ生命の原理があり、それゆえに、自然とは直接関係ない人格的な神が出現する。
それに対して、モンスーン地域では、人々は自然の恵みに甘え、自然の諸部分を神格化するので、多数教となる。
ギリシャの自然は、それほど恵み深いわけではないが、砂漠のような死の世界ではなく、人々の生活と自然は、非常に密着していたはずである。
そうして、ギリシャの風土と人間との関係は、牧歌的であるといえるだろう。
ギリシャ神話を読んだことのある人ならだれでも、その牧歌的な雰囲気を感じることができるであろう。
ギリシャが海に囲まれているわりに、ギリシャ神話には、漁業関係の話は少なく、狩猟や牧畜や農業に関係する物語が多い。
それは、元来ギリシャ人が海のないところから来たからであると考えられるところであるが、神話の中でも、特に牧畜に関する神話が主流を占めているのは、彼らが牧畜民であったことの表れであろう。
また牧人は、家畜と共に野や山で暮らすので、自然の親しみが深いし、自由な空想に耽る時間も多いので、神話をつくることに好都合であったと思われる。
ここで、最も牧人的な神、ヘルメスとアポロンの物語を紹介してみよう。
ヘルメスは、羽のはえたサンダルをはき、風よりも早く走ることができ、ゼウスの使者として活躍する一方、死者を冥界へ送るともいわれている。
ところがこのヘルメスは、泥棒の神ともされているのである。
ヘルメスはゼウスの息子であるが、生まれて半日もするとはいだして、亀をつかまえ、その甲羅に糸を張って堅琴を発明した。
その日の夜には、遠くまで出かけていって、アポロンの牛を五十頭盗み出し、足跡がさかさにつくように、牛を後ろ向きに追い立てて連れて帰り、そのうち二頭を焼いて食べ、知らん顔して赤ん坊らしく寝ていた。
アポロンはさんざん牛を捜して、ヘルメスのところへ来るが、ヘルメスの堅琴を聞くと怒りもとけ、二人は和解して、堅琴と牛を交換し、以後アポロンは音楽の神となったというのである。
この話はホメロスの讃歌集にあるものであるが、完全に牧民の生活を描き出しているといえよう。
そうしてまた、非常に空想的で、洗練されており、聴く人が信じなくてもかまわないというくらい興味本位に作られている。
こういう牧畜民の空想による神話がギリシャ神話の中で主流となって、牧歌的な雰囲気を生み出しているのだろう。
神々はまた、すべて男性か女性のいずれかであり、まるで人間のごとく、生殖や愛欲の虜となる場合がある。
例えば、ゼウスはヘラと結婚しているにもかかわらず、その多くの浮気が神話の主要な部分を占める。
ハデスはデメテルの娘ペルセフォネを掠奪し、ポセイドンはデメテルを追いかける。
アポロンはダフネに恋し、アフロディテとアルテミスは青年ヒッポリュトスを奪い合うかのようである。
このような例は数えきれないくらいあり、ギリシャ神話の間には、こういう愛欲の雰囲気が満ちており、それが神話全体の顕著な特色となっている。
これは、太古にガイアが生まれた時に出現したエロースの力とされ、その力は最初からこの世界を支配していたのである。
万物はエロースの媒介によって生み出されるという、いわば生物学的な世界観が、ここには貫かれている。
しかしながら、エロースは、後にアフロディテの息子として、羽根のある子供の姿、我々にはキューピッドとして知られている姿で、恋の矢をもって再び神話に登場するのであるが、このキューピッドに代表されるようななまめかしく、少女趣味的な恋愛場面の多い神話は、ローマ時代に、特にオウィディウスの手によって、メタフォルモセス(転身譚)として作られ、現代人にもこちらのほうが親しみが多いかもしれないが、本来のギリシャ神話はそれとは性格が異なるものであった。
というのは、恋愛というふうにこまごまと脚色された部分は装飾的なものにすぎず、むしろギリシャ神話は、その系図や子孫の方を重要視していたのではないかと思われるのである。
先のゼウスにしても、浮気による子供たちは、デュオニュソス、ヘラクレス、ペルセウスなど非常に重要なものばかりであり、それは、ゼウスのたんなる性欲の問題ではとどまらず、いわゆる生の力エロースによる、自然の理にかなった行為とみることができる。
これらのことから考えられることは、一般にいわれている、ギリシャの神々の性的放縦というべき印象は、ヘレニズム時代、あるいはローマ時代に作り出されたものが多く、ギリシャ神話のある一側面を強調したものであり、これが後代、ギリシャ神話の本質とみなされてしまい、ゆがめられた印象を我々は持ったのではないかということである。
つづく