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エル・スウェーニョ 横浜駅 ジャズアンドイタリアンレストラン ビッキーの論説 ギリシャ神話 第二章 神々の概観2016.02.29

  1. エル・スウェーニョ 横浜駅 ジャズアンドイタリアンレストラン ビッキーの論説 ギリシャ神話 第二章 神々の概観

 

後編

 

とにかく、ギリシャの神々は、人間らしいという点でその宗教性が批判されてきた。
特にキリスト教のごとく、自分の教義だけが心理であるとする全く不寛容な宗教が世界の多くを支配すると、それまでにあった、ギリシャの神々のような多神教はただちに虚偽で険悪するべきものとされた。
さらに、宗教学の方面ではギリシャの神々が姿を持つものとして存在し、神殿や彫刻などで偶像として崇拝される点で、キリスト教の立場からされてきた。
例えばヘーゲルの「歴史哲学講義」から引用すると、
「キリスト教と比較して、ギリシャ宗教の真の欠陥は、キリスト教においては現れるということが、神的なものの一つの契機として想定されているのに過ぎないのに、ギリシャ宗教においては、現れるということが最高の存在様式であり、実に神的なるものの全体をなしているということである。
キリスト教においては、現れたる神は死し、自己を止揚するものとして定立されている。
キリスト死して初めて、神の右手に坐せるものとして示される。
これに反してギリシャの神は、ギリシャ人にとって、現れのうちに永続的に存在するものであり、大理石や金属や木材のうちに、または空想の像として表像のうちに存在するにすぎないのである。」
なるほど主なギリシャの神々はその姿をはっきり見ることができる。
最初は詩の描写によって、そしてそれをもとにして彫刻、絵画によって、はっきりとした姿が描かれている。
このように神が姿を持つことが、宗教性の面で欠点となるかどうかは立ち入ることができないが、後のゲーテはアポロン像の前に立った時、崇高な神の光を見出したと言われているし、ゲーテのごとく高貴な精神が、ギリシャの神々の姿に神的なものを見るという例は、シラーやバイロンやその他多数の人々にも共通しており、また、我々日本人にとっては仏像に崇高な宗教性を見るというような例もあり、必ずしも、ヘーゲルのことばがすべて正しいとはいえないと思われる。
古代ギリシャでは、神々に捧げる多くの祭儀が生活の中で生きており、紀元後一世紀のころ、使徒パウロはアテナィを訪れ、多くの偶像に憤りを感じたけれど、当時のギリシャ人があらゆる面で非常に宗教心に富んでいることに驚嘆している。
ゲーテも、ホメロスは、いつも神々との関係を保っていたのに対し、当時(中世)にキリスト教のしきたりがあったとはいえ、これらの人々には天上の光の反映は微塵も見られないと語ったと伝えられる。
つまり、古代ギリシャ人が敬虔という意味で、神に負うもの、神に帰属するものが、日常の生活の中で非常に大きかったといえるのである。
古代ギリシャ人は、人間の行動を決定するものを神々と信じていた。
それはホメロスの詩の中に最もよく表れたいる。
「イリアス」の中で、アキレウスは追いつめたヘクトールに、
「もう、おまえにはのがれる道は一つとしてないのだ。すぐにもおまえを、パラス・アテナが私の槍で討ちとるであろう。」
と語る。
自分が行為するのではなく、アキレウスにおいてはアテナが行為するものとされるのである。
我々なら自分自身の決断というべきところで、ホメロスはある神の出現を見る。
その時代のギリシャ人一般にも同じことがいえるのであり、つまり神々は、自然現象や運命的な事件に現れるだけでなく、人間をその内奥で動かすもののうちにも現れると考えられていた。
同じことが詩人たち自身にもいえる。
叙事詩は数百年の伝統的な言語技巧をもってホメロスによって完成されるが、ギリシャの神々は、まず最初に、詩人たちに、ムーサ女神たちによって啓示された。
ムーサ(ミュージックの語源)たちは、神話では野や山に住み、アポロンと共に詩と音楽を司る女神である。
古代では詩と音楽は密接な関係にあり、詩人は、ムーサの「下僕」と自ら名のり、詩人の口から語られる口唱叙事詩は、すべてムーサが詩人の口をかりて歌うとされていた。
「イリアス」の冒頭の句も、「怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの」と、ムーサへの呼びかけからはじまる。
ヘシオドスも、ムーサが彼のもとにやってきて、聖なる歌を吹き込んだと語り、以下神々の系譜を「神統記」において語る。
ホメロスやヘシオドスのごとく、詩人たちは自分が詩をつくるのではなく、ムーサ女神が歌うのだと実際に考えていたのだ。
これからのことは、現代の我々には理解しがたく、またそのような態度を崇高なもの認めにくいものであろう。
そこで次の文を引用したい。
「ギリシャ的人間は神々に満ちた世界に在るので、自己の内部に視線をそらせ、そこに行動の動機と責任の根源を求めたりはしない。
彼の視線は存在の偉大なる事物に向かって注がれ、我々が志操だとか意志だとかいうときに、いつも神々の生きた実在(レアリアート)に出会っている。
このことから心理学者たちは、彼らの概念は実存(エクシステニス)の狭い領域にまったく閉じ込められている馬鹿げた結論を引き出す、当時の人間は未だ精神的内面生活の深みを知らなかったのだと。
真実はといえば、ギリシャ人は実在の世界を、つまり一切の存在(ザイン)を内にたもつ神々を生き生きと経験することによって、現代では学問さえなかった自己投影の危険と禍いとに対して守られていたのである。
それゆえにこそ、ホメロスをはじめとするギリシャのすべての偉大な人物たちに見られる、あのような高邁な精神状態が生まれえたのである。」

W・F・オットー「神話と宗教」
ムーサ女神によって神々は初めて詩人たちに姿を現した。
詩人たち以前のギリシャ人には神の名と祭儀があっただけだったが、ホメロスと(シオドスが神々の由来や姿を描いて、それがギリシャ神話を形成していたっと伝えたれる。
ムーサのような若く美しい女神が告げる神々は、寛容で、威圧的なところは全くなく、神々の名において説く教義や聖典というものは存在せず、人々は神々に対する敬意を忘れなければ、神々をどのように考えようとかまわなかったにもかかわらず、これらの時代にほとんど不信仰は存在しなかったといわれている。
しかしながら、その後キリスト教が宗教世界で勝利をおさめるとともに、ギリシャの神々は軽蔑され、無視されてしまう。
この時の事情をニーチェはこう語る。
『その事件が起こったのは、このうえもなく神をなみすることばが一人のかみそのものによって言われた時である。そのことばというのはこうだ。
「神は一人あるだけである。おまえはわたしのほかにいかなる神をもいただいてはならぬ」
髯の濃い怒りの神、嫉妬の神が我を忘れてこう言ったのだ。
それを聞いて、神々のすべては哄笑し、めいめいの椅子を揺すぶって叫んだ。
「神々はあるが、唯一の神はいない。そういうことこそ神的なことではないか」と。』
神的なこととは?
絶対の主権、絶対的屈従の要求、嫉妬、不寛容、これらは真実人間的なことではないのか?
そして事物の存在の多様性にこそ、神的なものをギリシャ人は見た。

第二章 おわり

エル・スウェーニョ 横浜駅 ジャズアンドイタリアンレストラン ビッキーの論説 ギリシャ神話 第二章 神々の概観2016.02.26

  1. エル・スウェーニョ 横浜駅 ジャズアンドイタリアンレストラン ビッキーの論説 ギリシャ神話 第二章 神々の概観

前篇

さて、それでは、ギリシャの神々というのはどのようなものであったか、これから具体的にみていこう。
まず、主神として、また雷神としてゼウスが天を支配する。
ゼウスはもっとも偉大とされ、神々もゼウスにさからうことはできない。
ゼウスの兄弟で、ポセイドンは海を、ハデス(プルートン)は地下の冥界をそれぞれ支配する。
ヘラはゼウスの妻で、結婚の守り神である。
ゼウスの子供たちでは、知恵と技術の女神アテナ、ゼウスの伝令役のヘルメス、弓や音楽の神アポロン、愛と美の女神アフロディテ、狩猟の女神アルテミスなどがいる。
そのほかには、酒と演劇の神デュオニュソス、農耕の女神デメテル、巨神プロメテウスなどが有名である。
これらの神々は、いわば特定の性格を持ち、ある特定の分野を司る。
それに対して、自然現象そのものともいえる、ウラノス(天)、ガイア(大地)、ポントス(黒海)、ニュクス(夜)などや、また、死(タナトス)、睡眠(ヒュプノス)、闘争(エリス)、運命(モイラ)、恥(アイドース)といったような、抽象名詞がそのまま神となったものも多くある。
さらに、泉や森の木に宿る美しい妖精ニンフ(ニュンペー)、下半身山羊の姿のサテュロス、詩の女神ムーサ(ミューズ)などもある種の神とされている。
このほかにも神と名のつくものは数多くあるが、神話で活躍するのは、主に、ゼウスを中心とするオリュンポスの神々である。
ところで、このように神々を数えあげてゆくと、それらの多くが自然と関わりを持っているのがわかる。
ウラノス(天)やガイア(大地)のごとく、自然現象そのものといったものはもとより、エリス(闘争)、モイラ(運命)なおの抽象名詞の神も、人の力のおよばない自然の力とみなされているわけだし、オリュンポスの神々では、ゼウスは雷電や嵐、ポセイドンは海と自信、ハデスは地底と死の世界、アポロンは月桂樹を持ち、ヘルメスと共に牧場などと関係があるし、アフロディテは花咲きほこる春の日が似合い、アルテミスは神秘の森の中に住む。
ニンフなどは、泉や森の妖精として、いちばん自然の生気を体現する存在である。
実際、主なギリシャの神々のうちで、その自然のあるいは風土と関係のないものはほとんどないくらいなのである。
和辻哲郎「風土」によると、人格的な唯一神の信仰が成立したのは、砂漠の風土と関係があり、死せる砂漠には自然の恵みなどなく、自然と闘ってゆく人間集団にこそ生命の原理があり、それゆえに、自然とは直接関係ない人格的な神が出現する。
それに対して、モンスーン地域では、人々は自然の恵みに甘え、自然の諸部分を神格化するので、多数教となる。
ギリシャの自然は、それほど恵み深いわけではないが、砂漠のような死の世界ではなく、人々の生活と自然は、非常に密着していたはずである。
そうして、ギリシャの風土と人間との関係は、牧歌的であるといえるだろう。
ギリシャ神話を読んだことのある人ならだれでも、その牧歌的な雰囲気を感じることができるであろう。
ギリシャが海に囲まれているわりに、ギリシャ神話には、漁業関係の話は少なく、狩猟や牧畜や農業に関係する物語が多い。
それは、元来ギリシャ人が海のないところから来たからであると考えられるところであるが、神話の中でも、特に牧畜に関する神話が主流を占めているのは、彼らが牧畜民であったことの表れであろう。
また牧人は、家畜と共に野や山で暮らすので、自然の親しみが深いし、自由な空想に耽る時間も多いので、神話をつくることに好都合であったと思われる。
ここで、最も牧人的な神、ヘルメスとアポロンの物語を紹介してみよう。
ヘルメスは、羽のはえたサンダルをはき、風よりも早く走ることができ、ゼウスの使者として活躍する一方、死者を冥界へ送るともいわれている。
ところがこのヘルメスは、泥棒の神ともされているのである。
ヘルメスはゼウスの息子であるが、生まれて半日もするとはいだして、亀をつかまえ、その甲羅に糸を張って堅琴を発明した。
その日の夜には、遠くまで出かけていって、アポロンの牛を五十頭盗み出し、足跡がさかさにつくように、牛を後ろ向きに追い立てて連れて帰り、そのうち二頭を焼いて食べ、知らん顔して赤ん坊らしく寝ていた。
アポロンはさんざん牛を捜して、ヘルメスのところへ来るが、ヘルメスの堅琴を聞くと怒りもとけ、二人は和解して、堅琴と牛を交換し、以後アポロンは音楽の神となったというのである。
この話はホメロスの讃歌集にあるものであるが、完全に牧民の生活を描き出しているといえよう。
そうしてまた、非常に空想的で、洗練されており、聴く人が信じなくてもかまわないというくらい興味本位に作られている。
こういう牧畜民の空想による神話がギリシャ神話の中で主流となって、牧歌的な雰囲気を生み出しているのだろう。
神々はまた、すべて男性か女性のいずれかであり、まるで人間のごとく、生殖や愛欲の虜となる場合がある。
例えば、ゼウスはヘラと結婚しているにもかかわらず、その多くの浮気が神話の主要な部分を占める。
ハデスはデメテルの娘ペルセフォネを掠奪し、ポセイドンはデメテルを追いかける。
アポロンはダフネに恋し、アフロディテとアルテミスは青年ヒッポリュトスを奪い合うかのようである。
このような例は数えきれないくらいあり、ギリシャ神話の間には、こういう愛欲の雰囲気が満ちており、それが神話全体の顕著な特色となっている。
これは、太古にガイアが生まれた時に出現したエロースの力とされ、その力は最初からこの世界を支配していたのである。
万物はエロースの媒介によって生み出されるという、いわば生物学的な世界観が、ここには貫かれている。
しかしながら、エロースは、後にアフロディテの息子として、羽根のある子供の姿、我々にはキューピッドとして知られている姿で、恋の矢をもって再び神話に登場するのであるが、このキューピッドに代表されるようななまめかしく、少女趣味的な恋愛場面の多い神話は、ローマ時代に、特にオウィディウスの手によって、メタフォルモセス(転身譚)として作られ、現代人にもこちらのほうが親しみが多いかもしれないが、本来のギリシャ神話はそれとは性格が異なるものであった。
というのは、恋愛というふうにこまごまと脚色された部分は装飾的なものにすぎず、むしろギリシャ神話は、その系図や子孫の方を重要視していたのではないかと思われるのである。
先のゼウスにしても、浮気による子供たちは、デュオニュソス、ヘラクレス、ペルセウスなど非常に重要なものばかりであり、それは、ゼウスのたんなる性欲の問題ではとどまらず、いわゆる生の力エロースによる、自然の理にかなった行為とみることができる。
これらのことから考えられることは、一般にいわれている、ギリシャの神々の性的放縦というべき印象は、ヘレニズム時代、あるいはローマ時代に作り出されたものが多く、ギリシャ神話のある一側面を強調したものであり、これが後代、ギリシャ神話の本質とみなされてしまい、ゆがめられた印象を我々は持ったのではないかということである。

つづく

エル・スウェーニョ 横浜駅 ジャズアンドイタリアンレストランでの ビッキーとユーリのグルメ探訪ひな祭り(十九話)2016.02.25

エル・スウェーニョ 横浜駅 ジャズアンドイタリアンレストランでの ビッキーとユーリのグルメ探訪ひな祭り(十九話)

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もうすぐ春だ。
まだまだ寒いとはいえ、日の陽光もだんだん強くなってきている。

もうすぐ桃の花が咲く。
三月三日は雛祭り。
ユーリも子供のころは家で雛人形を飾ってもらったものだ。
横浜駅イタリアン・レストラン・エル・スウェーニョにビッキーとユーリは食事に来た。
いつもの女性が迎えてくれる。
「こんばんは、いらっしゃい。」
「こんばんは。」
「ユーリさん、春らしい服装でお似合いですよ。」
「こんばんは、ありがとう。」
ユーリは今夜、薄い桃色のワンピースを着ている。
テーブルにつくと江野さんが挨拶に来た。
「いらっしゃい。ユーリちゃん、春めいた感じでかわいいね。もう春だね。」
「ありがとう。やっぱり春はいいですね。」
「今日は何にしますか?」
「赤ワインとオードブルそれからパスタにしようかな。」
江野が持ってきて開けてくれたのは、イタリアのローマのワインでその名もローマロッソ。
グラスに注ぐと軽やかな柔らかい香りが満ちる。
一口味わってみるとその豊かな、とろけるような滑らかな味わいはまさに春。
「おいしいですね。とても柔らかい深い味わいだ。」
とビッキーが言う。
「おいしい。」
とユーリもニッコリ。
生ハムが来た。

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クラッテロ・ディ・ズィベロ、幻のハムだ。
この生ハムも柔らかく深い味わいで、何か幻想的な世界を想起させる。
今日のおまかせサラダは、サニーカールとルッコラの緑野菜に、
トマトとモッツアレラチーズのカップレーゼ、
春キャベツとセロリ、パプリカの煮込み野菜だ。
「おいしいぃ。春の感じね。」
とユーリがバクバク食べながら言う。
今日のパスタはトマトとマスカルポーネのクリームパスタ。
テュラム・セモリナ粉の手打ちの麺を、たっぷりのあのおいしい水でさらっとゆであげ、
トマトとマスカルポーネのチーズと生クリームのあたためたソースであえる。
「春の日差しのような柔らかく暖かい感じがいいね。」
とビッキーとユーリも顔を見合わせてにっこりしながらパスタを味わった。

 

ビッキーとユーリのグルメ探訪 第十九話 おわり

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