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横浜駅イタリアン・レストラン・エル・スウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(十四)2016.01.08

横浜駅イタリアン・レストラン・エル・スウェーニョでのビッキーとユーリのグルメ探訪(十四)
今夜は、ビッキーは一人で横浜駅イタリアン・レストラン・エル・スウェーニョを訪ねた。
ユーリはいない。
もう夜も遅い。
江野は一人カウンターの中でぼーっと立っていた。
江野はテレビも見ない。
新聞・雑誌も読まない。
ケイタイ・スマホも持たない。
パソコン・インターネットも触りもしない。
暇な時はボーっとしている。
夢想しているのだ。
「こんばんわ。」
「やあ、こんばんわ。」
「ボウモアを一杯。」
「今日はひとり?」
ビッキーは江野とお話をしたかったのだ。
さしさわりのないムダ話がすこしあってから。
ビッキーは気になっていたことを聞いてみた。
「江野さん、あの白鳥はなぜ黒いんですか?」
江野は心の底から驚いた。
「白鳥はなぜ黒いか?」
この言葉を言ってくれる男を江野は三十年待っていたような自分に気が付いた。
ビッキーのような若者の口から聞けるとは。
友人。
弟子。
あるいは息子?
………
古代ギリシャ神話の時代。
万能の神ゼウスは雲のうえから下界を見渡していた。
すると泉で水浴びをする女が見えた。
女の美しさに魅かれたゼウスは白鳥に姿を変え、レダと交わる。
生まれたのがヘレナで、やがて女神のように美しい女となる。
ヘレナはギリシャの王、アガメムノンの妻として暮らしていたが、そこへトロイアの王子パリスが客としてくる。
ヘレナとパリスは一瞬のように恋に落ち、
手と手をたずさえて、トロイアへ逃げかえる。
恥辱と憤怒にアガメムノンは、ギリシャ中の王侯、英雄を従えトロイアを攻める。
ホメロスの叙事詩。
「イリアース」は、トロイアを攻める十年を「オデュッセイア」はトロイアを滅ぼした後の帰還の十年を歌う。
海の女神テテュスは英雄ペレウスとの間にアキレスを生む。
この子は長く生きられないとの神託をうけて、母親は赤ん坊を不死の水につける。
かかとをつかんで逆さまに。
母親は息子を女として育て、女の子たちの中に隠していた。
トロイア遠征に、アキレウスを捜すオデュセイは、女の子たちに贈り物を並べ、その中の槍をまっさきにつかんだのが、アキレウスであった。
「ミューズの女神よ。私に歌わせたまえ。ヘレナの美しさを、アキレウスの勇猛さを」
と始まるホメロスの詩は、アキレウスをはじめ、ギリシャの男たちとトロイアの英雄ヘクトールたちの苦難の戦いの物語だ。
トロイアはアポロンの神殿であり、ギリシャ軍は戦いの女神アテナがついている。
オリュンポスの神々も気が気ではない。
やがて戦いが最高潮に達し、パリスの放った矢がアポロンに導かれて、アキレウスのかかとに突き刺さり、アキレウスは死ぬ。
多くの男たちがヘレナ一人のために死ぬ。
知将オデュッセイの木馬でやっとトロイアを滅ぼしたギリシャの男たちは、故郷に帰るまでの旅に十年を費やす。
サイクロン、サイレーン、さまざまなものがオデュッセイたちの前に現れる。
二十年の歳月を経てギリシャも変わってしまった。
並みいる求婚者たちを断り切れなくなったオデュッセイの妻は、夫の強弓をひける男の妻になりますという。
誰もひけない。そこへ帰りについたオデッセイがその弓をひき夫とわかる。
人類最古の文字と呼ばれる。
おそらくもっとも多くの人がこの物語を読んだことだろう。
ホメロスは目が見えず、文字も残していない。
即興詩で歌うだけだ。
後の人がその歌を書き残したのである。
二千年以上前のすばらしい詩に出会った時から、江野はホメロスを崇拝すると共にある小さな疑問を持った。
その疑問を持った人はおそらく江野だけではないに違いない。
ミケランジェロは、教会の天井に宗教画を描くかたわら、レダと白鳥の絵を書く。
その絵はオランダ公に進程されたが、オランダ公はそれを焼きすてた。
理由は明確であろう。
絵は残っていない。
ゲーテはファウストを古代ギリシャまで旅をさせ、ヘレナとパリスの駆け落ちの場面を目撃させる。
そして、ファウストはトロイアの滅亡からヘレナを救い出す。江野は心密かに思う。
ホメロスの詩には、「イリアース」「オデュッセイア」の前に「レダと白鳥、あるいはヘレネイア」というべき、失われた理由はミケランジェロと同じであろう。
幻の最古の詩を想像することはできる。
聞くことはできない。
読むことはできない。
………
ホメロスの口から聞くことができたら。
………

(第十四話 おわり)

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